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黒田 官兵衛 エピソード

  • Writer: Rolf Reeves
    Rolf Reeves
  • Oct 30, 2023
  • 15 min read

黒田 官兵衛 エピソード

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竹中半兵衛と黒田官兵衛 ~秀吉が頼りにした2人の天才軍師

彼の性格は 寡黙で無欲恬淡 、戦国の下剋上の世において、出世欲がまるでない人物でした。自分の兵法を用いて采を振ることに生きがいを感じる ナルシストで職人気質 な人物です。熱心な技術者(スペシャリスト)は、ある種のナルシストであると私は感じているので、そういった意味合いも込めています。容姿は華奢で女性のようだったことから、青ひょうたんと呼ばれていました。また、あえて主張しない彼の性格が災いしてか、他の武将からは大分舐められていました。

難攻不落の城をたった16人で乗っ取る

そんなある日、半兵衛は人質として稲葉山城に居た半兵衛の弟(久作)に仮病を演じさせます。弟の見舞と称して屈強の配下15人と稲葉山城に登城し、突如として稲葉山城を乗っ取ってしまいます。信長が何度も攻めあぐねた稲葉山城をたった16人で占領してしまったのです。その後は場外に控えていた手勢を率いれ、完全に守りを固めてしまいました。乗っ取りの際、以前から彼を罵ってきた武将(斎藤飛騨守)も切り伏せています。

これを聞いた信長は、半兵衛に「美濃半国を与えるから稲葉山城を明け渡さないか?」と持ちかけますが、半兵衛はこれを一蹴。半年後には主君の龍興に城を返還します。

半兵衛の目的は、自身の野心から来る乗っ取りではなく、政務を怠る主君を諌(いさ)めるためだったのです。

なんというか、「俺が俺が」の戦国時代において、「何て清廉潔白・無欲恬淡な人物なんだろう」と、当時の私は心惹かれたのを覚えています。

秀吉の説得に応じ、織田家の武将となる

その後、稲葉山城は信長の手に落ち、斎藤氏は滅んでしまいます。半兵衛は織田家から再三の勧誘を受け、秀吉の説得に応じて織田家の武将として活躍していきます。半兵衛は信長が嫌いだったらしく、「秀吉の客将(配下ではないお客さん武将)としてならいいよ」と条件に応じたとされます。信長の直下に仕えることを拒んで客将として迎えられたのですが、実質的には織田家の武将となったのです。

半兵衛の得意とするところは誘降( 説得による制圧 )で、敵味方お互いの犠牲を最小限に抑えることに重きを置いていました(この意思は以後秀吉に受け継がれます)。一方信長は、反抗勢力に対しては徹底殲滅策を取ります。この辺りの違いを見ても、両者はあまり折り合いがつかなかったのではと想像できます。

黒田官兵衛について

黒田官兵衛は播磨国(兵庫県)の出身で、西播磨に勢力を置く小寺氏に仕えていました。居城は世界遺産で有名な姫路城です。また、息子の黒田長政は初代福岡藩主で、福岡民謡「酒は呑め呑め 呑むならば」の黒田節で有名な黒田氏のことです。

官兵衛が秀吉の家臣になる前、当時(1575年頃)の播磨国は西に毛利氏、東に織田氏が勢力を張っており、東西を大国に挟まれた微妙な位置(緩衝地帯)にありました。国内を統一できる力を持ったリーダーもおらず、小豪族が毛利と織田どちらに付くか日々顔色を窺っている状態でした。

ただ緩衝地帯といっても、当時の播磨国内は毛利氏の影響が強く、主君の小寺氏や重臣達は毛利氏に付くことを考えていましたが、「 将来性のある織田氏に付くべきだ 」とまだ齢の若い官兵衛が他の重臣達を説き伏せ、織田家に付くことになりました。

主君の秀吉ですら恐れたその知略

秀吉が、自分の死後「天下を取るのは誰か」と近習に質問したところ、前田利家や蒲生氏郷、徳川家康といった名前が出るなか、秀吉は「 さも末恐ろしきは、かんぴょうえ(官兵衛)よ 」と答えています。

五大老で250万石もの領土を持ち、後に天下を取る徳川家康をさしおいて、たかだか10万石程度で一参謀に過ぎない官兵衛の名前を真っ先に挙げたのです。秀吉は彼の才覚を相当に恐れ、わざと低い石高に抑えています。10万石は官兵衛の活躍にはとても釣り合わない石高ですが、秀吉は近習に「奴に100万石も与えてみろ。たちどころに天下を取られてしまうわ。」と述べています。

この噂が官兵衛の耳に入ったのか、官兵衛は家督を息子の長政に譲り、自身を「如水(水のごとくしなやかに、の意)」と称して隠居します。時の権力者に目を付けられていることに対し、敵意の無いことをアピールしたのです。

遠く九州の地より、天下を窺う

時は1600年、秀吉の死後、天下をめぐって日本が東西まっ二つに分かれて争う「関ヶ原の戦い」が勃発します。毛利輝元を擁する西軍と、徳川家康を擁する東軍が覇権を賭けて激突する中、遠く九州の地にてある男がその野望を再燃させます。そう、隠居後に豊前中津(九州の大分県)にて穏やかな余生を過ごしていた黒田官兵衛(如水)です。彼は全国を巻き込んだ混乱のさ中、壮大な構想を立てます。

「東西を二分するこの戦いは長期化するだろう。戦力が中央に集中している隙をついて 九州を席巻 し、その余勢を駆って東西両軍が疲弊した中央政権に攻め込み、黒田の旗を立てる。」

・・・え?・・・マジすか? 壮大すぎて事の真相は官兵衛にしか分かりませんが、実際に官兵衛は貯め込んでいた私財を投げ売って民兵を組織し、もの凄い勢いで九州の諸城を落としていきます。ところが、皮肉なことに息子の長政が調略した小早川秀秋の寝返りもあり、関ヶ原の戦いはたった一日で終わってしまいます。その後は東軍の家康に戦勝祝いをするとともに、兵をまとめて豊前中津に凱旋帰国。表向きは東軍として動いていたので、官兵衛の野望が明るみに出ることはありませんでした。

秀吉に一生警戒されることになったその一言

1582年に本能寺の変が起こり、信長が横死。天下統一目前まで来ていた織田軍団は大混乱に陥り、備中(岡山県)の地において秀吉もまた絶望に打ちひしがれます。が、秀吉は頭をフル回転させ、ある可能性を見出します。

秀吉の天下取りへの野望が芽生え始めた瞬間です。ですが、そんな態度を周囲に見せてしまってはいけないので、秀吉は大号泣し自暴自棄になるデモンストレーション(芝居)をします。ところが、そんな演出をぶち壊すかのように官兵衛が耳元である言葉を漏らします。

秀吉はその言葉を聞いてゾッっとします。まだ誰にも気付かれていない秀吉の心中を見透かすようなその言葉は、官兵衛にとっては悪意を持って発言したわけではないのですが、秀吉に官兵衛の末恐ろしさを植え付け、以後 秀吉に死ぬまで警戒 させられるきっかけとなってしまいました。

竹中半兵衛と黒田官兵衛の間で生まれた絆

黒田官兵衛の居る播磨国に、中国地方の攻略を任された羽柴秀吉が入国します。黒田官兵衛は臣従の証として自身の長子、松寿丸(のちの黒田長政)を人質として信長に差し出します。

播磨に入国した羽柴軍は、拠点の姫路城を中心に半兵衛・官兵衛の調略を用いて播磨国の大半を織田方に帰属させていきます。

別所長治、荒木村重の謀叛

明けて天正6年(1578年)、さらなる西進を目指していた矢先、事件が起きます。東播磨に影響を持つ三木城の別所長治が突如として反旗を翻したのです。これに呼応するかのように播磨一帯の国人衆が一斉に反旗を翻し、 羽柴軍は播磨の地にて孤立 してしまいます。

黒田官兵衛、土牢に幽閉される

竹中半兵衛は悪化していた持病の労咳(結核)を押して三木城包囲に在陣。播磨情勢の悪化に責任を感じたのか、黒田官兵衛は説得のため荒木村重の籠る有岡城へ単身乗り込みます。

ところが説得は失敗。官兵衛は、荒木村重によって土牢に幽閉されてしまいます。この土牢は周囲を竹藪に囲まれ、沼が近く蚊・ブヨが湧き湿気がひどい。この投獄期間は1年にも及び、後に助けられたときには、頭皮はノミ・シラミに食い荒らされ瘡(カサ)だらけ、膝は「くの字」に曲がったまま歩行困難になってしまったといわれています。

(肖像画の頭巾は、このとき出来た瘡(カサ)を隠すためのものです)

さてこの官兵衛投獄の件は、信長はおろか秀吉にすら把握されておらず、官兵衛との連絡が途絶えた織田家において、時が経つにつれ「殺された」「寝返った」などさまざまな噂が飛び交いました。

官兵衛の寝返りと判断した信長は、「 人質の松寿丸(黒田長政)を殺せ 」と秀吉に命じます。官兵衛のことを信じていた半兵衛は、 絶対命令であった信長の命に背き 、全責任を背負って密かに松寿丸を自身の居城(岐阜県垂井町)に匿います。

黒田官兵衛の救出とその後 (※ここがメインです)

官兵衛が幽閉されて1年後、有岡城は織田軍によって陥落し、土牢から官兵衛が発見されます。官兵衛の無実が証明された瞬間です。信長は人質の松寿丸を殺してしまったことを悔やみますが、後に半兵衛によって匿われていたことを知り、胸をなでおろします。

官兵衛もまた、この件を聞いて半兵衛に大変感謝をしました。そして、お礼を言うため半兵衛の元へ訪れようとします。しかし・・・それは一生叶わぬものとなってしまいました。

・・・そう、竹中半兵衛は黒田官兵衛が幽閉されてる間、三木陣中にて没していたのです。

竹中半兵衛との出会いは、この強烈なエピソードによって十数年経った現在においても色あせることなく私の心に刻まれています。(今もたまに読み返すと涙腺緩みます)

竹中半兵衛没後、黒田家は終生竹中半兵衛の恩義を忘れまいとしました。半兵衛より黒餅紋付き陣羽織を譲り受けていた黒田長政(松寿丸)は、その後替紋を黒餅にしています。

以上、非常に長くなってしまいましたが、ご清覧ありがとうございました!

黒田官兵衛(孝高)とはどんな人?名言・偉業・死因も解説

1578年には荒木村重が信長達から離反しようとした為、説得を図ろうとしますが、捕らえられ1年程幽閉されます。生還後は、頭髪は抜け落ち、膝の関節が曲がり、脚は一生回復することはなかったようです。 しかしその後も軍師としての真価を発揮。鳥取城、備中高松城の攻略、小田原城無血開城などで武功を挙げます。その頃には謀反を起こした荒木村重の三木城も既に陥落し亡命、官兵衛の主君の小寺政織も備後に落ち延びています。

1582年に本能寺の変で信長が暗殺された後は、 秀吉に毛利輝元と和睦と備中高松城からの「中国大返し」を進言。 明智光秀を討つため京に向け出発し、明智光秀を倒します。

後半生

天正17年(1589年)家督を長政に譲る 文禄元年(1592年)朝鮮出兵 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い その後52万石の大名となるが、本人は隠居する 慶長9年(1604年) 死去 享年59

長政と光成の対立

官兵衛は1589年に長政に家督を譲りますが、その後も秀吉の側近として活躍します。秀吉が全国を統一した後に朝鮮出兵が始まります。 無謀な戦いの中で、長政と石田三成が対立します。

関ヶ原の戦い

秀吉没後は反石田派となり、関ヶ原の戦いでは長政は家康側につき、東軍に参加。西軍の小早川秀秋が裏切るように説得をしています。 官兵衛は九州におり、西軍総大将の毛利輝元の側近の吉川広家への説得や、西軍の大友義統との戦いに勝利しています。 親子揃って関ヶ原の戦いでは大活躍をしています。

その後は功績が認められ、筑前一国52万石という、大大名になりました。

死因

慶長9年(1604年)、官兵衛は病に伏せました。病名は分かりませんが、59歳で死去しており、当時では長寿です。 辞世の句は「おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて」です。

黒田官兵衛の人物エピソード

病気が進行し、死期が近づいてくると、穏やかだった官兵衛はすぐに癇癪を起こし、周りを困らせます。困った長政は「見舞いに来てくれた人たちを困らせないでほいと言います。 官兵衛はわざと酷い仕打ちを行い、自分が疎まれる事で、早く長政の代になって欲しいと家臣が思うので、わざと困らせていると言いました。 上に立つものは引き際が肝心です。世代が変わる時に引導を渡せるように、しっかりと準備が必要とわかっていたのですね。

黒田官兵衛の城

藤堂高虎や加藤清正と並んで「築城の名手」としても知られています。 城作りに大きく関わっている他、本人も何度も城を替えています。その中の一部を紹介します。

姫路城

妻鹿城

篠ノ丸城

中津城

1587年に秀吉から豊前12万石を与えられ、作られたのが中津城です。黒田官兵衛が築城し、細川忠興が完成させました。 日本三大水城に数えられています。 領地の中心にあり、豊前海に流れ込む山国川の河口という天然の堀を活かした作りになっていますね。現在の中津城の天守閣は1964年に作られたものです。

福岡城

1600年の関ヶ原の戦いの功績から筑前一国52万石を与えられ、その地に作りました。 朝鮮の難攻不落の城・晋州城をモデルにして造られており、 九州一の規模を誇ります。 当時から残っているのはわずかな部分だけですが、石垣や本櫓などはそのまま残っています。

黒田官兵衛の逸話

名前について

野心について

官兵衛は軍師としてのイメージが強いですが、天下を狙っていたとも言われています。関ヶ原の戦い後、家康は長政に感謝の意を述べ、握手をしたそうです。長政はその事を官兵衛に話しますが 、官兵衛は「その時、お前の左手は何をしていた?左手で家康の首を狙えたではないか」と言ったと言われています。 この台詞自体は後世の創作とも言われていますが、「関ヶ原の戦いがもう1ヶ月も続いていれば、中国地方にも攻め込んで、華々しい戦いをするつもりであったが、家康勝利が早々と確定したため何もできなかった。」と述べていた事は事実のようです。関ヶ原の戦いという最期の大舞台で大きく台頭する気があったのかもしれませんね。

黒田官兵衛の兜

『銀白檀塗合子形兜』と呼ばれます。黒田官兵衛が結婚する時に、舅の櫛橋伊定から贈られたものです。兜は椀の形をしており、派手な装飾のないシンプルなものでした。銀箔の下地に、透漆をかける事ど艶のある赤褐色となっています。 お椀型の兜は特徴的であり、何故こんな兜になったかは諸説あります。蓋付きのお椀は合子と呼ばれます。合は連れ添う、結ぶ等の意味があり、結婚を機にもらった兜なので、夫婦愛を表していたのかもしれません。またお椀は戦場では「敵を飲み干す」という意味もあり、軍師として名を馳せた官兵衛にぴったりです。この兜は官兵衛の死の間際に家臣の栗山利康が預かっています。こちらの兜は福岡県ではなく、盛岡のもりおか歴史文化会館にあるので、興味のある方は立ち寄ってくださいね。

黒田官兵衛が行った偉業

官兵衛は様々な戦に関与し結果を残しています。因幡の鳥取城を兵糧攻めにして落城させたり、毛利の備中高松城を堤防を築いて水攻めにする等、時には手段を選びませんでした。過激な作戦を練りつつも、小田原城攻めの際には北条家に対しては和睦を進言する等の融和策もとっています。 最も官兵衛が迅速に動いたのは、本能寺の変後の毛利家との和睦と、中国大返しでしょうか。信長が亡くなり混乱する中で、秀吉が台頭する足がかりとなりました。 関ヶ原の戦いでは家康につく事で、戦国時代そのものを終結させており、太平の世を作ったとも言えますね。

黒田官兵衛が行った逸話

<秀吉のバテレン追放令 (吉利支丹伴天連追放令) 出典:wikipedia>

人間関係の達人

官兵衛とキリスト教

天正11年(1583年)、黒田官兵衛が38歳の頃、キリスト教の洗礼を受け、ドンシメオンという名をもらっています。 その後秀吉がバテレン追放令を出した際にはあっさりと棄教しています。後に出家し黒田如水と名を変えており、むしろ仏教への帰依が強いです。 九州はキリスト教の影響が強く、周囲から理解を得る事も目的だったのかもしれません。最後は城主の一命と交換に多くの城兵を解放しています。また、キリシタン大名である小西行長の家臣が追放されると、密かに召抱える等、キリスト教の影響を受けたような行動もみられています。

黒田官兵衛の名言

義にあたりて命を惜むべきにあらず 義理の為に命を惜しんではいけないと言う事ですね。主君への忠誠を重視する儒教の影響を色濃く受けていた事が分かります。信長や秀吉に対しても義理を忘れなかった官兵衛らしいです。

戦いは考えすぎては勝機を逸する。すぐに駆け出すほどの決断が大切だ これは直感で行動しろと言う意味ではありません。官兵衛は様々な策略を実行し成功させますが、諸大名の力関係、状況や戦況を常に把握し、脳内で様々な策略を練っていたからです。 すぐに戦局に合わせて駆け出すには、それに裏付けられたか確信がないといけません。現在でも優秀なビジネスマンほど、様々なアイデアを脳内で考えて、その状況に合わせた行動を取っているものです。

黒田官兵衛にゆかりのある寺院・神社・墓

播磨国総社

正式名称は射楯兵主神社です。中世にこの地を治めていた赤松氏に敬われたもので、黒田官兵衛の父が1567年に拝殿と神門を修築します。 1580年には官兵衛も大名になった際に祈祷を受けています。 姫路市の山陽姫路駅から徒歩15分程の距離にあり、入場料はありません。

書写山圓教寺

崇福寺に官兵衛と妻光のお墓があります。 崇福神社はもともと大宰府にありましたが、黒田家が福岡藩主となり福岡城建設を行う為に移転しました。 門は福岡城の城門を移転したものが使われています。現在は福岡市博多区にあります。唐門や仏殿など県指定の有形文化財が多数残る博多の名所です。

黒田官兵衛の子孫について

<黒田長政騎馬像 出典:wikipedia> 官兵衛はこの時代には珍しい、一夫一妻でした。 妻の櫛橋光とは仲睦まじかったようですね。息子が二人産まれますが、次男の熊之助は水難事故で16歳で亡くなっています。官兵衛の子孫は息子の長政の血筋となりますね。

 
 
 

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