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神武 天皇 東征 ルート

  • Writer: Rolf Reeves
    Rolf Reeves
  • Oct 30, 2023
  • 26 min read

【保存版】神武東征神話を丸ごと解説!東征ルートと地図でたどる日本最古の英雄譚。シリーズ形式で分かりやすくまとめ!

【保存版】神武東征神話を丸ごと解説!東征ルートと地図でたどる日本最古の英雄譚。シリーズ形式で分かりやすくまとめ!

神武東征神話とは

神武天皇による日本の建国神話

大業 たいぎょう を広め天下を統治するために、世界の中心を目指して東征する神話です。

世界の中心= 中洲 なかつしま

日本建国の地ですね。神武天皇が日向を出発し、 中洲 なかつしま をめざし東へ。幾多の困難を経て、最終的に 橿原 かしはら の地を選び、初代天皇として即位する。

「旅立→試練→凱旋(達成・成就)」の3部作。

第1部:旅立 約束の地へ向けて旅立ち 神武誕生、東征発議と出発、岡山「高嶋宮」まで 第2部:試練 幾多の困難・犠牲を乗り越え、天神の助力を得ながら成長 孔舎衛坂 くさえさか の戦いから丹生川上儀式、国見丘の戦いまで 第3部:凱旋 不屈の精神、臣下の活躍、天の加護により念願達成 兄磯城討伐から橿原即位まで

多大な試練と苦難を乗り越えて建国した

ってこと。すべて上手くいきました的な話ではありません。しっかりどん底も用意されていてドラマ性たっぷり。

主人公 彦火火出見 ひこほほでみ :のち神武天皇 目指した土地 葦原中國 あしはらのなかつくに の中心地= 中洲 なかつしま =(最終的に)橿原 何故目指したか? 大業 たいぎょう をひらき広め、天下を統治するため どこから出発したか? 日向(宮崎) 西から東を目指したので「東征」 どのような経路? 日向(宮崎) →宇佐(大分) →筑紫(福岡) →安芸(広島) →吉備(岡山) →浪速(大阪) →紀(和歌山) →熊野(和歌山・三重) →宇陀(奈良) →橿原(奈良) 所要年月 約6年 兄弟構成 4人兄弟。神武は末っ子。 長兄: 五瀬命 いつせ の みこと 次兄: 稲飯命 いなひ の みこと 3兄: 三毛入野命 みけいりののみこと 主な臣下 椎根津彦 しいねつひこ ←旧:珍彦 道臣命 みちのおみのみこと ←旧:日臣命 主な敵 長髄彦 ながすねびこ 八十梟帥 やそたける (敵戦士集団) 兄猾 えうかし 兄磯城 えしき 支援者 天照大神、 高皇産霊尊 たかみむすびのみこと 、 武甕雷神 たけいかづちのかみ 、 頭八咫烏 やたがらす 、 金色の霊鵄 くがねのあやしきとび 、 塩土老翁 しおつちのおじ

Ⅰ.神武東征~旅立~

1.神武の生い立ちと東征開始

神武天皇(即位前は 「彦 火火出見 ほほでみ 」 ) は、 天照大神 あまてらすおおみかみ の「第五世代 直系子孫」として誕生。母は海神の娘。4人兄弟の末っ子。生まれながら英明にして意志強固。15歳で皇太子。

45歳になると、兄たちや子、臣下に「東に、理想の政治を行うのにふさわしい地がある。その国の中心めざし東征しよう!都をつくろう!」とアツく語る。これが東征発議。みんな激しく同意。そこで、さっそく「東征」の旅に出る。この年、 太歳 たいさい ・ 甲寅 きのえとら (紀元前667年)。

2.東征途上(速吸之門~安芸)

東征一行が「 速吸之門 はやすいなと 」に到ると、 国神 の「 珍彦 うづひこ 」が出迎える。神武は 「 椎根津彦 しいねつひこ 」 の名を与え、海路の先導者とします。さらに北上し、「 莬狭 うさ 」(大分)へ。そこでは、 国神 くにつかみ 夫婦が宮を造って、神武一行に饗宴を奉ります。その後、筑紫の「 岡水門 おかのみなと 」を経て、安芸(広島)の「 埃宮 えのみや 」に滞在。

翌年、 乙卯 きのとう の年(紀元前666年)春に、吉備(岡山)に到る。そして、「 高嶋宮 たかしまのみや 」を建て3年居住する間に、軍船を整備し食糧を備蓄。一挙に天下平定しようと目論みます。

Ⅱ.神武東征~試練~

3.上陸、中洲を目指す

戊午 つちのとうま の年(紀元前663年)春、東征軍は遂に東に向かいます。船団を連ねて「 難波の碕 なにわのみさき 」に到り、更に遡って「 白肩津 しらかたのつ 」に上陸。

4.激戦、五瀬命負傷、撤退

最初、 龍田 たつた を通って 中洲 なかつしま (大和平野・奈良盆地)へ抜けようとしますが、狭くて険しくて通れず。。。戻って、 胆駒山 いこまやま を越えて入ろうとします。

ところが、そこに大和最大の敵 「 長髄彦 ながすねびこ 」 が立ちはだかる。 孔舎衛坂 くさえさか で激戦となり、 「 五瀬命 いつせのみこと 」 (長兄)が敵の矢をうけて重傷を負う。神武は憂慮。「 神策 しんさく 」をめぐらして「神祇を祭り、日を背に負う戦法」を採るべく撤退を決断。「草香津」に到り、盾を 植 た てて雄叫びをあげます。

天照大神 あまてらすおおみかみ (高天原の最高神であり太陽神)の末裔である神武が 「 天神子 あまつかみこ 」を自認・自称しているにも関わらず、

  1. 天神 あまつかみ や 地祇 くにつかみ のを礼祭し、加護や援助を得る。

  2. 東から西に向かって敵と戦う=昇る太陽を背に受けて日神の霊威を負う=勝てる!

5.長兄「五瀬命」の死

深手を負った長兄「 五瀬命 いつせのみこと 」は、「山城の水門」に到って瘡痛が激しくなり「まだ戦える身ながら、報復もせずに死ぬ無念」を口にし、ついに「 竈山 かまやま 」に到ったとき 薨去 こうきょ 。その地に葬ります。

6.熊野入りと海難による兄の喪失

紀伊半島を南下、ぐるっと一周し、熊野「 神邑 みわむら 」に到る。ここで「 天磐楯 あまのいわたて 」に登り、異界の地に踏み入れようとしてることを実感。軍を引き、注意深く進みますが、暴風雨に遭い、船は漂蕩。

この時、 「 稲飯命 いなひのみこと 」 (次兄)は、海神を母にもつ身なのに海に苦しめられる理不尽を口にして海に入り「 鋤持 さいもち 神」となる。 「 三毛入野命 みけいりののみこと 」 (3兄)もまた、海神を母や姨にもつのにどうして溺らせるのかと恨み、 常世 とこよ の郷へ去ってしまいます。。なんてこった。

7.陸難と2度の天照大神救助

「熊野 荒坂津 あらさかのつ 」、現在の三重県熊野市大泊付近に到る。ココで、海路から陸路へ転換。

その時、突然、熊野の荒ぶる神が毒気を吐いて襲いかかる!神武はじめ全軍が気力を喪って昏倒、突然ですが絶体絶命の危機!!その時、天照大神が 「 武甕雷神 たけみかづちのかみ 」 に救援を命じ、 葦原中國 あしはらのなかつくに を平定した「神剣」で全軍が正気回復。危機を脱出します。

さらに、熊野の山を越えて 中洲 なかつしま を目指しますが、山中の道が険しく行く手を阻まれ、進退窮まる。この時、再び、天照大神が救援。神武の夢に立ち、「 『 八咫烏 やたのからす 』 を遣わすから引率者にせよ」と訓します。果たして、飛来した八咫烏を「 日臣命 ひのおみのみこと 」が追いつつ道を拓いて先導。ようやく宇陀 宇賀志 うかし に到ります。神武天皇は日臣命に 「 道臣 みちのおみ 」 の名を賜う。

8.道臣の武勇と兄猾誅殺

宇陀 宇賀志 うかし の 「 兄猾 えうかし 」「 弟猾 おとうかし 」 兄弟を召し出すと、兄は抵抗、弟は 恭順 きょうじゅん 。兄の謀計を弟が密告し、将軍「 道臣 みちのおみ 」がそれを逆手に取り、激怒大喝して「 兄猾 えうかし 」を圧死させる。さらに斬る。

「弟猾」が饗宴を設けて慰労すると、「 彦火火出見 ひこほほでみ (神武)」は兵士たちに酒肉を賜い、 来目歌 くめうた をうたう。

9.吉野巡察

宇陀から軽装の兵を連れて吉野を省察し、各地で 国神 くにつかみ と出会う。皆、オモシロい方々で従順。

10.天香具山の埴土採取と祈(うけひ)

その夜、見た夢で 天神 あまつかみ が必勝の方法を伝授。弟猾も同じ内容を奏上。そこで、夢の通りに作戦実行し、丹生川上で賊虜呪詛の祭祀を行う。さらに、道臣を斎主とし「 顕斎 うつしいわい 」の儀式を行い、祭りの場に 「 高皇産霊尊 たかみむすびのみこと 」 を現前させて祭神とする。

11.国見丘の戦いと忍坂での残党掃討作戦

「 顕斎 うつしいわい 」の儀式で供えられた神饌を口にし、 「 高皇産霊尊 たかみむすびのみこと 」の加護 を受けた神武。

まず「 八十梟帥 やそたける =敵」を 国見山 くにみやま で破る。残党掃討は将軍「 道臣 みちのおみ 」が担当。「 忍阪 おっさか 邑 むら 」に大きな家を作らせて 饗宴 きょうえん に誘い、そのたけなわ油断した時に全て殲滅。

Ⅲ.神武東征~凱旋~

12.椎根津彦の謀計と兄磯城誅殺

磐余 いわれ の 磯城彦 しきひこ = 「 兄磯城 えしき 」「 弟磯城 おとしき 」 兄弟を攻撃しようとし、まずは「八咫烏」を遣わして帰順勧告。兄の「 兄磯城 えしき 」は反抗。弟の「 弟磯城 おとしき 」は恭順をもって迎え、饗を設けもてなした上で、東征軍のもとに参じて兄を告発。

椎根津彦 しいねつひこ が策略を建議。敢えて弱い軍隊を出して敵を誘い出し、一方で精鋭部隊を墨坂に派遣、敵の「 焃炭 おこしずみ (盛んにおこった炭火)」を 莬田川 うだがわ の水をかけて消したあと、墨坂を越えて挟み討ちにし 兄磯城 えしき を誅殺。

13.最終決戦!金鵄飛来し敵軍眩惑

遂に最終決戦へ。「 長髄彦 ながすねびこ 」を猛攻撃。しかし、なかなか勝を得られない。その折も折、突然曇り 氷 ひょう が降るなか 金色 こがね の 「 霊鵄 くしきとび 」 が飛来して天皇の 弓弭 ゆはず に止まる。流雷の光り輝きにより、長髄彦軍は 眩惑 げんわく して力戦不能に陥る。

たまらず長髄彦は使者を派遣。以後、交渉開始。長髄彦の不信に対して、神武は「 天表 あまつしるし 」を示し天神世界のロジックを諭すも、自分の理屈に固執する長髄彦。そんな長髄彦を見限って、 饒速日命 にぎはやひのみこと は長髄彦を殺し、、神武へ帰順。神武はそんな饒速日を「でかした!」と 寵愛 ちょうあい する。

14.大和平定成就

翌年( 己未 つちのとひつじ の年(紀元前662年)春、軍事教練し 中洲 なかつしま に進軍。 波哆丘岬 はたのおかさき 、 和珥坂下 わにのさかした 、 長柄丘岬 ながらのおかさき 各地に勢力を張って帰服しない「 土蜘蛛 つちぐも 」=反抗する敵を殺す。そして、高尾張邑(御所市)の「土蜘蛛」を「 葛 くず の網」で襲って殺す。遂に、東征による天下平定事業がここに完結。

さらに、東征の 事蹟 じせき にちなむ地名起源設定。 「 磐余 いわれ 」と「 埴安 はにやす 」は超重要スポット。

15.橿原宮造営

橿原の地を国の中心とみなし、ここに宮都を造営。さらに現妻をさしおき、新たに正妃「媛 蹈韛五十鈴媛命 たたらいすずひめのみこと 」をお迎えする。曰くつきの麗しいお姫様。。

16.橿原即位

辛酉 かのととり の年(紀元前661年)春、正月1日、 彦火火出見 ひこほほでみ は 橿原宮 かしはらのみや で即位。この年を 天皇 すめらみこと の元年とし、正妃を尊んで 皇后 きさき とした。

まとめ:神武東征は「日本最古の英雄譚」

日本最古の英雄譚、サクセス・ストーリー。

冒頭でもお伝えしましたが、決して平たんな道のりではなかった所がポイント。

旅立ちから 孔舎衛坂 くさえさか 直前までは順風満帆。支援者の登場、入念な準備。「建国」という夢と野心にあふれていました。

ところが、大和の地に入り「 長随彦 ながすねびこ 」という最大の敵に蹴散らされて以降、苦難の連続です。兄の全てを失い、道に迷い、気力喪失昏倒し、、、しかしあきらめずに、勝利する方法を思考し、臣下の協力と天照大神の助力を得ながら進軍。最終的に、一度戦って敗れた最大のライバルを撃破。

まさに「旅立→試練→帰還(凱旋)」という流れ。よくできていますよね。

大業(志・ビジョン)は一人で成し遂げるものではない。

臣下(あるいは仲間)の協力や天神(私たちで言えば先祖様的な守護者)の力を得て、はじめて大業は成し遂げられる!

神武天皇生誕地から東征した理由とルートそして即位の場所と年!連綿と続く国体の始まり!!

古事記編纂の関連人物は天武天皇と 太安万侶 おおのやすまろ と 稗田阿礼 ひえだのあれ で、完成は和銅5(712)年、日本書紀の場合は 天武 てんむ 天皇、 川島皇子 かわしまのみこ 、 草壁皇子 くさかべのみこ 、そして 舎人親王 とねりしんのう が編纂に関与した人物であり、養老4(720)年に完成したといったことを知っておくのも確かに重要でしょうが、このような受験のための外面上の暗記的知識よりも、もっと大事なことは、そこに何が書かれているのかといった内面的要素です。その中身はどちらも、我が国土の創立から始まる歴史書であるということです。

フィクションに垣間見るノンフィクション

古事記と日本書紀の違い

ほぼ同時期にでき上がった 古事記と日本書紀の違いは、極めて単純な言い方をすれば、前者は関係者のための内々の史料、後者は隣の大国を意識した対外的な史料 だったということです。そのせいもあってか、古事記の方が文学的要素がより強く感じられます。

歴史的事実がほぼ同じ

しかし両者には、神代から第33代推古天皇の時代までの同じ出来事が記載されていて(日本書紀は第41代持統天皇の時代まで続く)、個別の事柄によって記述の濃淡はあるものの、基本的な流れの明確な相違はありません。ほぼ同時期に成立したものといっても、編纂に関わった人物は違うのですが、それにも関わらず、 ふたつの別個の史料が示す歴史の流れの根幹に食い違いはない のです。

ましてや 日本書紀においては、勅命による正史 なわけですから、適当なことが書いてあるはずがないのです。よって記紀は開闢以来の我が国の歴史を忠実に記載したものであると先ずは考えるべきであり、難解な部分はその信憑性を真っ先に疑うのではなく、その奥底に秘めた真意を探るべきだと思うのです。

日本という国家の歩み

大御心

天皇は国体

それが日本の国体であり、日本の歴史が天皇とともにある所以です。その 天皇の位に一番初めに就いたのが神武天皇 です。

神武天皇登場まで

とは言え歴史は神武天皇が始めるわけではなく、神武天皇にも先代がいて、その先代にも先代がいて、そのまた先代にもやはりという具合に、どんどん遡ることができます。こうして辿り着いた先は 天地開闢 てんちかいびゃく の時です。

天地開闢

ここからは主に古事記に準じて進行します。宇宙の初めで 天 あめ と 地 つち がまだ混沌としていた時に、 高天原 たかまのはら という天界にアメノミナカヌシ、タカミムスビ、そしてカミムスビの三柱が生まれました。

次に地から天へ向かって萌え上がったものの中から、ウマシアシカビヒコヂとアメノトコタチの二柱が生まれました。前の三柱と合わせてこれらの五柱に性別はなく、姿を見せることもなかったが、天界を治める 天津神 あまつかみ であり、高天原で生まれた特別な神であることから、 別天津神 ことあまつかみ とされています。

神世七代(かみよななよ)

五組は対ですから二柱で一代と数え、最初に地上で生まれた 国津神 くにつかみ を総じて神世七代といいます。最後の七代目が、 イザナギ とイザナミです。

淤能碁呂島(おのごろじま)

別天津神は地上の様子を見ていましたが、未だ漂うばかりの地上を安定させるよう イザナギ とイザナミに命じて、美しく装飾された矛を授けました。重責を担ったイザナギとイザナミは天と地の堺である 天浮橋 あめのうきはし の上に立ち、授かった矛を地に向かって突き下ろしてぐるぐる掻き回し、それを引き抜くと滴り落ちた雫が凝固し、それが日本の基となる島となりました。

それを見届けた イザナギ とイザナミは、天浮橋から地上に降りて家を建て夫婦として生活し、他にも島々をたくさん生み出し、そして子もたくさん生みました。しかし最後となった火の神を出産した時、イザナミは大火傷を負って絶命してしまい、 黄泉国 よもつくに へ行ってしまいました。

黄泉国と禊(みそぎ)払い

イザナギ は悲しくて、黄泉国まで行ってイザナミを連れ戻そうとしてその暗闇のなかでイザナミを見つけました。しかしその時交わしたイザナミとの約束を守らず灯りを灯てしまったためイザナミの醜く穢れた姿を見て幻滅してしまい、イザナミと大喧嘩の末地上に舞い戻り、穢れを払うため 竺紫 つくし の 日向 ひむか で禊をしました。

その時洗った左目から アマテラス という女神が、鼻からハヤスサノヲという男神が生まれ、 アマテラス は高天原を、ハヤスサノヲは海原を治めるようイザナギに命じられました。ところがハヤスサノヲは乱暴者でありながら泣き虫でイザナギの言うことを聞かず、亡き母神のもとへ行きたいと言ってイザナギを激怒させ、追放されてしまいました。

誓約(うけい)の勝負と天石屋戸(あめのいわやと)

そこでハヤスサノヲは、母神のもとへ行く前に姉神に別れを告げにいこうと思い、高天原へ行きました。それを知った アマテラス は、ハヤスサノヲが高天原を攻めに来ると思い、武装して待ち受け勝負しましたが、ハヤスサノヲは自分の勝ちを主張し乱行を重ねてまくったため、 アマテラス は非常に強いショックを受け、天石屋戸に籠ってしまい、長い間暗黒の世が訪れてしまいました。

八俣大蛇(やまたのおろち)の退治

ハヤスサノヲはクシナダヒメとの結婚を条件に八俣大蛇の退治を請け負い、見事成功します。八俣大蛇を泥酔させて剣で八つ裂きにすると、尾の部分から大刀が出てきたので、それをアマテラスに献上しましたが、それは 天叢雲剣 あめのむらくものつるぎ 、すなわち 三種の神器のひとつである 草薙剣 くさなぎのつるぎ です。

ハヤスサノヲはクシナダヒメと結婚し、出雲に宮を建て子をもうけました。その6世を隔てた子に、 因幡 いなば の白兎 を助けた逸話で有名なオホクニヌシがいますが、この後ハヤスサノヲは、かねての願い通り 根堅洲国 ねのかたかすくに へ赴いていきました。

国作り前の受難

オホクニヌシは兄たちの 八十神 やそがみ に疎んじられて、策略を受けて一度ならず二度までも命を落としますが、その度に母親が見つけ、母親の尽力によって生き返ります。そして二度目に甦った時、先行きを案じた母親の勧めにより、根堅洲国にいるハヤスサノヲのもとに救いを求めに行きます。

命がいくつあっても足りないと思ったオホクニヌシは、ハヤスサノヲの太刀と弓矢を持って、スセリビメを連れてそこから逃れようとしますが、ハヤスサノヲは直ぐに気付いて追いかけてきます。そして 黄泉比良坂 よもつひらさか という坂の上まで来てオホクニヌシを遠くに見つけると、オホクニヌシが手にしているハヤスサノヲの太刀と弓矢を使って性悪の八十神を追討し、スセリビメを嫁にして国の頭となり、 宇迦能山 うかのやま の麓に御殿を建てて住めとオホクニヌシに叫び命じました。

オホクニヌシは言われた通りにし、なおも次々に四方を平定し国を広げていきました。そんなある日、出雲国の 御大岬 みほのみさき という海辺にいると、海の向こうから供を連れて船を漕ぎ寄せてくる、体のとても小さな神様と出会いました。

海から来た神との国作り

オホクニヌシもその言葉に従って、スクナビコナとともに国作りを進めていきましたが、ある時スクナビコナは、急に 常世国 とこよのくに という海の向こうの遥か彼方へ行ってしまいました。オホクニヌシはがっかりして、自分独りではとても思い通りに国作りなどできないと嘆いていると、やはり海の向こうから、ハヤスサノヲの子のオホトシという神が現れて、自分を 大和 やまと の 御諸山 みもろのやま の上に祀ってくれさえすれば、国作りを手伝ってもよいと言い、オホクニヌシはその言葉の通りにして、ふたりでまたどんどんと国を開いていきました。

高天原からの使者

その様子を見ていた天空の アマテラス は、そのうちに下界の 豊葦原瑞穂国 とよあしはらのみずほのくに を治めるのは自分の子の アメノオシホミミ だと言い出して、すぐに降っていくように アメノオシホミミ に命じました。 アメノオシホミミ はすぐに準備に取り掛かりましたが、天浮橋まで来て下界を見下ろすと、そこでは力のある大勢の神々が独自に暴れまわっていて、下界は乱れていました。

それで アメノオシホミミ はあわてて引き返してきてその様子を アマテラス に告げると、 アマテラス は アメノオシホミミ を遣わす前に他の神々を下界に送り込んでは騒ぎを鎮めさせようとします。その辺の経緯がああでもないこうでもないと展開されますが、ここでは割愛しておきます。

国譲り

そしてようやく下界が落ち着いた頃、 アマテラス は再び アメノオシホミミ を、豊葦原瑞穂国を治めるべき者に指名しますが、丁度その頃 アメノオシホミミ とその妻のヨロズハタトヨアキヅシヒメとの間に世嗣ぎが生まれたため、 アメノオシホミミ は我が子の方が豊葦原瑞穂国を統治するのに相応しいと アマテラス に提言しました。 アマテラス はそれを聞き入れ、その子が成長するのを待って命を下し、ついにこの ヒコホノニニギ が降臨する運びとなりました。

天孫降臨

その際サルタビコという国津神が、道案内のために光を煌々と照らして天浮橋まで迎えに来ていました。この時 アマテラス は、後に 三種の神器 と呼ばれる 八尺瓊勾玉 やさかにのまがたま と 八咫鏡 やたのかがみ と、かねてハヤスサノヲがかねて八俣大蛇を退治した時に献上した草薙剣を自分の分身代わりに ヒコホノニニギ に授け、他に大勢の神々を供につけて下界に送り出しました。

天降った ヒコホノニニギ は初め 日向国 ひむかのくに の 高千穂 たかちほ の険しい山峰に着き、それから段々と山を下って平地の海の方へ向かって行き、同じ日向国の 笠沙岬 かささのみさき に辿り着きました。その地がすっかり気に入った ヒコホノニニギ は、そこを住み処と定めました。

ある時 ヒコホノニニギ はその岬で、オホヤマツミの子のコノハナノサクヤヒメに出会い、その若い娘が気に入って結婚しました。やがてコノハナノサクヤヒメは子供を授かりましたが、その子があまりにも早く生まれそうになるので自分の子ではないのではないかと疑心暗鬼になりました。

そこでコノハナノサクヤヒメは、 産殿 うぶや を密閉しなおかつそこに火を放って燃え盛る中で出産しましたが、乱暴な生み方をしても何事もなく無事であったことで、身籠った子が ヒコホノニニギ の子であることを証明しました。そして火中で生まれた三兄弟は順に、ホデリ、ホスセリ、 ホヲリ と名付けられました。

海幸彦と山幸彦

長兄のホデリは漁が得意でよく海に行っては釣りをし、末弟の ホヲリ は猟が得意でよく山に行っては狩りをしました。ある時末弟は長兄に向かって、それぞれの持ち場も道具も取り替えてみようではないかと提案し、ホデリは何度か断ったものの、あまり何度も言われるので、とうとう提案を受け入れることにしました。

ところがお互いの役目を交代すると、それぞれが全く上手くいかなかったどころか、 ホヲリ は兄の大事な釣り針を海の底に沈めて失くしてしまいました。 ホヲリ は失くした針の代わりに自分の持っていた剣を打ち壊したりして新しい針をたくさん用意したのですが、ホデリは激怒していて、全く許してくれません。

綿津見(わたつみ)の宮殿

困り果てた ホヲリ が海辺で泣いていると、その場に現れたシホツチという潮路を司る神が事情を聞いて気の毒に思い、海の神の御殿の井戸の上の桂の木に登って待っていれば、 海神 わたつみ の娘のトヨタマビメがきっと助けてくれると言い、小舟を作って ホヲリ を乗せ、舟を押し出してくれました。それで言われた通りに木の上で待っていると、井戸に水を汲みに来たトヨタマビメの侍女が ホヲリ を見つけました。

事の経緯を説明され、トヨタマビメが門口まで見に行くと、確かにそこに容姿端麗な神がいたので、父神に話をしたところ、そのお方は降臨された貴い神の子に違いないと言って御殿の中に丁重の限りを尽くして招き入れ、トヨタマビメを嫁に差し出しました。それでそのままそこで、 ホヲリ はトヨタマヒメと不自由なく暮らしていましたが、3年が経ったある晩にふと失くした釣り針のことを思い出し、深いため息をつきました。

そんな ホヲリ の思い悩んだ姿を初めて見たトヨタマビメは心配になって翌朝父神に相談し、海神が ホヲリ に尋ねて事の次第を知りました。海神は ホヲリ の失くしたホデリの釣り針を見つけてやり、意地悪な兄を懲らしめて服従させる術を授けて ホヲリ を地上に帰しました。

故郷に帰った ホヲリ は海神の言いつけ通りにして兄のホデリに釣り針を返してやったところ、ホデリは次第に貧しくなって ホヲリ を憎み攻め寄せましたが、その度にますます惨めな状況になっていき、とうとう ホヲリ の 僕 しもべ になることを ホヲリ に誓いました。このホデリは 筑紫 つくし に住んだ 隼人 はやと の祖先であり、それ故隼人はその後ずっと朝廷に仕えることになります。

鵜葺草(うがやくさ)の産殿での出産

ホヲリ がトヨタマビメを残して海から去った後、身重のトヨタマビメが天空の貴い神の子を海の中で生むわけにはいかないと言って、ふいに ホヲリ のもとへやって来ました。 ホヲリ が急いで海辺に鵜の羽を屋根に葺いた産殿を建ててやるとすぐにトヨタマビメは産気づき、二人の子を生みました。

この時 ホヲリ はトヨタマビメとの約束を違えて、お産の最中に巨大なサメに姿を変えたトヨタマビメを見てしまったので、トヨタマビメは非常に恥ずかしく思って地上にいられなくなり、お産が済むと海に戻ったきり二度と姿を現しませんでした。

ただ地上に残した我が子が心配でならなかったので、自分の代わりに妹のタマヨリビメを遣わせて養育させました。御子は産殿の鵜の羽の葺草を葺き終わる前に生まれたことから、 ヒコナギサタケ ウガヤフキアへズ ・・・・・・・・ と名付け、やがて成人すると、養母のタマヨリビメを嫁にし、四人の男子をもうけました。

神武天皇誕生

長男の名はイツセ、二男はイナヒで三男はミケヌ、そして四男は ワカミケヌ といい、二男は海の遥か向こうの常世国というところに渡ってしまい、三男は母親の故郷の綿津見の国へと行ってしまい、四男が日向の高千穂に宮を建てて地上を収めていました。

後に和風で 神倭伊波礼毘古天皇 かむやまといわれびこのすめらみこと 、漢風で 神武天皇 じんむてんのう と 諡号 しごう される初代天皇はこの四男のワカミケヌです。以上は古事記に基づいて話を振り返りましたが、日本書紀でも細部はともかく大筋に違いはありません。

神武天皇の系譜

天地開闢から我が国に天皇という存在が生まれるまでの流れは、難解な展開と思われつつも、かみ砕いてしまえば単純なものです。 神武天皇は イザナギ の子孫 だということです。

日本の国土を造形した イザナギ の娘が天津神の アマテラス で、その孫が地上に降臨した ヒコホノニニギ で、その曾孫にあたります。 イザナギ の六世孫 になります。

神武東征

さて、 イザナギ が黄泉国から脱出して最初に降りたったのが日向です。その後ハヤスサノヲやオヲクニヌシらの出雲での逸話が展開されますが、 ヒコホノニニギ が天から降臨したのはやはり日向です。

日向国生誕地

神武の生誕地は、宮崎県にある霧島連山の、その東麓にあたる高原町です。ここにある 皇子原神社 おうじばるじんじゃ (地図①地点) には、神武が生まれた産殿がありました。

東征前

東征する前までは、神武は高千穂で宮を営んでいました。かつて神武天皇宮と称した 宮崎神宮 みやざきじんじゃ (地図②地点) は、その 高千穂宮 たかちほのみや 跡地であり、毎年10月に催行される御御幸祭は 神武さま と呼ばれ、県内最大級のお祭りとなります。

東征決意

船出

宮崎県日向市の 立磐神社 たていわじんじゃ (地図③地点) は神武東征の船出の地です。 美々津 みみつ 港の岸壁近くに鎮座する神社の境内にある岩に腰を下ろして、神武が船出を指揮しました。

豊国(とよのくに)宇沙(うさ)での歓待

それから大分県 宇佐 うさ 市に到着してウサツヒコとウサツヒメの兄妹に出会い、両者は神武一行のために饗宴を催しました。 宇佐神宮 うさじんぐう (地図④地点) は宴のために作った足一騰宮があった所です。

筑紫国に一年

宇佐から 遷 うつ って次に着いた所は、福岡県です。 遠賀郡 おんがぐん 芦屋町の 岡湊神社 おかみなとじんじゃ (地図⑤地点) には、神武が一年間滞在した 岡田宮 おかだのみや がありました。

安岐国(あきのくに)で七年

岡田宮を去った後、 多祁理宮 たけりのみや には七年間滞在しました。広島県安芸郡府中町にある 多家神社 たけじんじや (地図⑥地点) はその宮跡です。

吉備国(きびのくに)では八年

更に広島県から岡山県に遷り上って、そこでの生活は八年にも及びました。岡山市南区にある 高嶋神社 たかしまじんじゃ (地図⑦地点) には八年間滞在した 高嶋宮 たかしまのみや がありました。

速吸門(はやすいのと)を経由

高嶋宮を出て 明石海峡 あかしかいきょう (地図⑧地点) にさしかかると、潮路を熟知したこの地方の国津神であるウヅビコと出会い、船頭に召し抱えます。サヲネツヒコの名を授けられたその者は、後世の 大和国造 やまとのくにのみやつこ の祖となります。

畿内に到着

そして一行は明石海峡を抜けて大阪湾に入り、急流を渡って 生駒山 いこまやま の西麓にある 日下 くさか の 蓼津 たてづ というところに上陸しました。ところがここで土豪のナガスネビコが待ち構えていて、一戦を交えることとなりますが、その場所が東大阪市日下町の、 孔舎衙小学校 くさかしょうがっこう 辺り(地図⑨地点) です。

紀国(きのくに)男之水門(おのみなと)での出来事

日の神の御子が太陽の方角に向いて戦ったからよくなかったという、痛手を負った兄のイツセの提言で迂回して逆向きに戦うことにした一行は、生駒山を陸路で越えるのを諦め、南方に海上移動しますが、和歌山県の紀ノ川の河口付近まで来たとき、イツセはついにこの世を去ります。和歌山市小野町の 水門吹上神社 みなとふきあげじんじゃ (地図⓾地点) はイツセ絶命の地であり、同市和田にある 竈山神社 かまやまじんじゃ (地図⑪地点)の裏山にはイツセの陵墓があります。

霊剣入手

神武一行はそこから更に迂回し、紀伊半島に沿って和歌山県 新宮市 しんぐうし の 熊野速玉大社 くまのはやたまたいしゃ (地図⑫地点) 辺りに上陸します。そこでは大熊に出くわし、毒気にあたって皆気を失ってしまいますが、そこにタカクラジという者がやって来て、天津神のアマテラス・タカミムスビ・タカミカヅチらから夢枕で授かった霊剣 布都御魂 ふつのみたま を神武に差し出すと、神武は正気に戻りその霊剣で大熊どもを成敗したのでした。

八咫烏(やたがらす)

そしてその時タカミムスビから神武に八咫烏が遣わさせて、神武一行はそのヤタガラスに従い吉野川の下流まで至り、そこで土着の者どもを従えて、奈良県 宇陀市 うだし に入りました。それは 八咫烏神社 やたがらすじんじゃ (地図M⑬地点) のある場所ですが、ここではエウカシとオトウカシの兄弟に騙し討ちにされそうになったものの、結局オトウカシが神武に服従したため事なきを得ました。

宇陀に到着するまでは深山を踏み越え、道を穿りながらの難行でした。それ故この進軍を、特に 宇陀の 穿 うがち と言っています。

畿内先住部族の帰順

更に進軍して土着民のツチグモを討つと、天津神のニギハヤヒがやって来て神武に帰順しました。ニギハヤビが娶ったトミヤビメはナガスネビコの妹でしたが、その間にできた子のウマシマヂは 物部連 もののべのむらじ の始祖です。

ニギハヤビは天津神の御子で、 天磐船 あまのいわふね に乗って天降り、ナガスネビコを従えて河内国を治めていました。 饒速日命墳墓 にぎはやぎのみことふんぼ (地図⑭地点) が奈良県生駒市にありますが、このことは元々大和地方を、神武が現れる前には別の部族が支配していたことを示唆しています。

大和朝廷の始まり

さて、ニギハヤヒを味方に付けた神武はとうとう大和の地に入り、そこで宮を営みました。大和三山のひとつである 畝傍山 うねびやま の麓に鎮座する、奈良県 橿原市 かしはらし の 橿原神宮 かしはらじんぐう (地図⑮地点) は、その 白檮原宮 かしはらのみや があった場所です。

日本書紀によれば、即位は辛酉年1月1日、即ち西暦紀元前660年2月11日。 現在2月11日が 建国記念の日 という祝日 であるのは、そうした所以によるものです。

この記事のまとめ

  1. 古事記と日本書紀は天地開闢以来の国史を扱う記述物であり、両者の歴史的事実に大きな隔たりはない。

  2. 古事記は私的な読み物であり、日本書紀は公的な正史である。

  3. アマテラス の五世孫、 ヒコホノニニギ の曾孫が神武天皇である。

  4. 神武が高千穂宮にいたが、西の外れの辺境の地ではあまねく天下を安定させることができないとの理由で東の方へ新天地を求めた。

  5. 神武東征のルートは生誕地の宮崎県を出発点として、大分県―福岡県―広島県―岡山県―大阪府―和歌山県を経由し奈良県を終点とする。

  6. 営んだ宮は白檮原宮と呼ばれ、場所は奈良県橿原市の橿原神宮のある辺りとされている。

  7. 即位は辛酉年1月1日即ち西暦紀元前660年2月11日であり、その日は現在「建国記念の日」という名称の祝日になっている。

ところがかつて演説の場で、日本は神の国であると述べた首相がいてすこぶる顰蹙を買ったらしいのですが、もしそうならば逆に自国の古い歴史をよく勉強していると、私は誉めてあげたいくらいです。何故ならば 正史に、ちゃんとそう記述されている のですから。

これは何も神道のみを唯一信仰せよと強要しているわけでも何でもありません。そんなことはひと言も書かれていませんし、そもそも 八百万 やおろず の神は、如何なる宗教に対しても寛容なのです。

 
 
 

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