発表 せよ 大本営
- Rolf Reeves
- Oct 30, 2023
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大本営発表はなぜ「ウソの宣伝」に成り果てたか
熟練度の高い搭乗員はすでに戦死し、作戦に参加したのは初陣を含む未熟な兵卒が大半だった。多くは米軍の反撃で撃墜され、 鹿屋 ( かのや ) 基地(鹿児島県)に帰還した搭乗員の報告は「火柱が見えた」「艦種は不明」といったあいまいな内容ばかりだった。だが、基地司令部は「それは撃沈だ」「空母に違いない」と断定し、大本営の海軍軍令部に打電した。翌日に飛んだ偵察機が「前日は同じ海域に5隻いた空母が3隻しか発見できない」との報告が「敵空母2隻撃沈」の根拠とされ、さらに戦果に上乗せされた。

水増しと隠蔽をさらに歪めた内部対立
予期せぬ敗北で損害隠し「日本の勝ち」
報道部の担当者は戦後、ミッドウェー海戦の大本営発表のなりゆきについて、「真相発表とか被害秘匿とかそんなものを飛び越えた自然の成り行きであった。理屈も何もない」と述懐している。誰かの決定も指示もなく、あうんの呼吸で部署間のバランスに配慮した結論が出された。情報軽視と軍内部の対立という欠陥は放置されたまま、空気を読んで戦果を 忖度 ( そんたく ) し、でたらめを発表する仕組みができ上がった。
良心の 呵責 ( かしゃく ) もあったのか、ミッドウェー海戦以降、いったん大本営発表の回数は激減する。しかし、しばらくして再び増え始めた大本営発表には、当たり前のようにウソが混じるようになる。辻田さんは「ウソをつくことを覚えたのだろう」と分析する。海軍はミッドウェーでのごまかしは、すぐに勝って帳尻を合わせればよいと思っていたようだが、戦いの主導権は二度と戻らなかった。
「撤退」を「転進」に言い換え責任不問に
昭和19年(1944年)以降、本土が空襲にさらされ、戦いの前線が迫ってきても、大本営はウソを発表し続けた。ごまかしや帳尻あわせが破綻した後は、神風特別攻撃隊の攻撃が発表の目玉に据えられた。特攻隊の戦果は大幅に水増しされたが、国に身を 捧 ( ささ ) げて得た戦果を疑うことは許されない。大本営は特攻隊まで戦果の取り繕いに利用したのだ。
日本帝国海軍の無能
こうして誕生した帝国海軍は、近代国家の海軍としての装備を徐々に拡充させていきました。 そして1894〜1895年の日清戦争、1904〜1905年の日露戦争では、海軍の大活躍により日本は勝利を収めます。 日露戦争後、1920年に海軍増強政策である「八八艦隊法」が成立し、これによってさらなる海軍軍備の増強が始まりました。さらに言えば、この海軍増強策が欧米列強との建艦競争を招き、加えてアメリカを仮想敵国としたことで、その後の太平洋戦争を招くことにもつながりました。
実際、大日本帝国において、政府と軍部の協力関係はまったくといっていいほどありませんでした。 軍隊を動かす最高指揮権のことを「統帥権(とうすいけん)」というのですが、明治維新以後、統帥権は政府から切り離されて独立していました。そしてその統帥権自体、陸軍と海軍とに分裂していたのです。 したがって、大東亜戦争では、日本に陸海軍を統括する最高司令部が存在せず、そのために戦略が不在となり、個々の戦闘はまったく関連せずに個別に行われたのです。 つまり、問題の本質は、陸軍と海軍とで統帥権が分断されていたことなのです。
アメリカ海軍の将校アルフレッド・マハン(1840〜1914)による『海上権力史論』'The Influence of Sea Power Upon History'は1890年に出版され、そのなかで、「海洋国家の国権の拡張は制海権の確保にあり、その最大の戦力は大艦隊の常備であり、その任務は敵国艦隊の撃破である」ということが説かれました。 帝国海軍は、このマハンの思想を利用し、また、それに凝り固まって、以後なんら新しい戦略思想を持ち得ずに、太平洋戦争突入までの時間を無為に過ごしたのです。
10月16日、弱りきった近衛首相は、とうとう内閣を投げ出します。そして登場したのが、東條英機(1884〜1948)でした。 組閣にあたって、東條は総理とともに陸軍大臣を兼務して憲兵を掌握し、内務大臣を兼務して治安警察を手中に収めます。そして、国内騒乱にはみずから鎮圧に乗り出す覚悟を示したのです。 この東條内閣の成立で、大日本帝国は太平洋戦争開戦に向かうわけですが、当初、東條はたとえ屈辱的な譲歩をしても開戦を避けるつもりでした。
「帝国は現下の危局を打開して自存自衛を全うし大東亜の新秩序を建設するためこの際対米英蘭戦争を決意して左記措置を採る」 との大方針のもとに、 「十二月初旬を期限として陸海軍の作戦準備を完整するとともに対米交渉を行うほか、独伊との提携強化、タイとの軍事緊密関係を樹立する。対米交渉がその間に成功したならば武力発動を中止するが、成功しなければ開戦する」 というのが、その主旨でした。
1941年11月15日、大本営政府連絡会議で、「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」が決定されます。これは、対米英蘭戦争および蒋介石(1887〜1975)との日中戦争をどう戦うかという大方針を決定するものです。 《速やかに極東に於ける米英蘭の根拠を覆滅して自存自衛を確立すると共に更に積極的措置に依り蒋政権の屈服を促進し独伊と提携して先ず英の屈服を図り米の戦意を喪失せしむるに勉む》 がその大方針であり、そのおおまかな内容は、以下の通りでした。
<第1段作戦> 極東における米英蘭拠点を覆滅して、日・満・支・南方資源地帯を基盤とする自存自衛態勢の確立を図る。 (「初期進攻作戦」、別名「南方作戦」)
<第2段作戦> ①中華民国・蒋政権の屈服作戦(「対支大作戦」) 援蒋ルートを遮断され、補給を断たれた重慶に対し、政治的(和平)・軍事的(進攻)措置により、その屈服を図る。 ②独伊とインド洋で提携する英国屈服作戦(「西亜作戦」) インド洋を制圧して日独伊の連絡連携を図るとともに、連合国の輸送大動脈を遮断して英国を軍事的経済的に追いつめてその屈服を図る。 ③対米作戦 太平洋近海に強固な防壁を築き、昭和18年(1943年)後半以降と推測される米国の対日反攻作戦に備える。
<観劇レポート>Aga-risk Entertainment「発表せよ!大本営!」
屁理屈シチュエーションコメディ劇団。 一つの場所で巻き起こる事件や状況で笑わせる喜劇、シチュエーションコメディを得意としており、最近では大勢の人物がごちゃごちゃ理屈をこねたり議論をするコメディを作っている。 王道でウェルメイドなコメディを独自の理論で一捻り二捻りした作品が多いが、そんな中でも'劇場でウケること'を重視して創作している。 母体が存在せず、千葉県市川市の公民館で自然発生した野良劇団であるが、主宰の冨坂のルーツである千葉県立国府台高校を題材にした作品が多く、代表作の「ナイゲン」は各地の高校・大学の演劇部や劇団で上演されている。 演劇公演以外にも、コントライブの開催やFLASHアニメーションの製作などを手がけるなど、活動範囲は多岐にわたる。また、隔月程度の頻度で新宿シアター・ミラクルにて開かれる「演劇」×「笑い」のコントライブシリーズ、新宿コントレックスを主催する。 「アガリスクエンターテイメント」及び「Aga-risk Entertainment」が正規表記。「アガリクス」では無い。
事前に分かるストーリーは?
1942年6月。行け行けドンドンの楽勝ムードで臨んだミッドウェー海戦にて歴史的な大敗を喫した日本軍。 戦勝パーティーまで準備していた海軍は、ショックも冷めやらぬまま新たな問題に直面する。 ーーーこの結果を国民にどう発表する? 「真実を伝えるべき」 「いや、国民の士気を落とすわけにはいかない」 「逆に危機感を煽ることによって戦意高揚を図るっていう…」 まとまらない意見。責任をなすりつけ合う各部署。 こうして、海軍報道部員のいちばん長い日がはじまった…!
観劇のきっかけ
ネタバレしない程度の情報
上演時間・チケット価格・満足度
客席の様子
観劇初心者の方へ
観た直後のtweet
アガリスクエンターテイメント「発表せよ!大本営!」130分休無。 前半スロースタート。中盤〜後半の畳み掛け方がすごく、綺麗な序破急。大爆笑止まらず。 死ぬな、の説得は「笑の大学」っぽさも感じ。でもこれ笑っちゃうほど愚かしい我々の歴史なんだよな、と終戦記念日の今日に少し涙。超オススメ! — てっくぱぱ (@from_techpapa) August 15, 2019
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