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板東 俘虜 収容 所 海外 の 反応

  • Writer: Rolf Reeves
    Rolf Reeves
  • Oct 30, 2023
  • 4 min read

渦の国 鳴門 ~ 魅力あふれる鳴門の街 ~

収容所内の施設は、レンガ積み基礎に木造平屋建ての上屋を載せる構造を基本としている。現在、収容所跡地に整備されている鳴門市ドイツ村公園内には、レンガ基礎の一部が露出して保存されているが、大半の遺構は造成等により埋没しており、原位置の把握が困難となっていた。調査にあたっては、収容期間中の1919(大正8)年にドイツ兵捕虜が作成した所内の測量図『要図(ようず)』を元にして現況地形と照らし合わせ、施設の位置を絞り込んだ上で調査区を設定し、収容所を構成する主要な建物について、建物の配置、基礎部分の構造および残存状況の確認を行った。 下士官以下の捕虜を収容した廠舎建物は、測量図によると1棟の規模が幅7.5m、長さ72.9mとされている。公園内には長さ約30mのレンガ積み基礎が4棟分残されており、このうち廠舎第5棟の発掘調査では、全長の約1/2にあたる約36mの残存を確認した。なお、収容所の各施設で築かれたレンガ積みには、いわゆる「イギリス積み」が採用されており、廠舎遺構で確認したレンガ基礎の幅や積み上げる段の数は、その他の施設とも共通することが判明している。また、建物基礎に使用されたレンガの刻印から、香川県観音寺市(かんおんじし)の讃岐(さぬき)煉瓦(れんが)会社の製品であることが判明している。 第1将校廠舎の調査では、測量図に幅7.5m、全長約45mの規模で記載された建物の南端部で、地下に埋没していた基礎遺構の残存を確認したほか、収容所閉所後に陸軍演習場として利用された際、建物南端部を拡張して増築した痕跡とみられるレンガ基礎を8.3mの長さで確認した。 捕虜に支給するパンを製造した製パン所は、掘立柱(ほったてばしら)建物であることが確認され、当時の写真資料からは把握できなかった構造の特徴も判明した。この屋内に設置された製パン竃は、南北4.6m・東西3.7mの規模でレンガ積みの基礎が造られ、竃の南側には作業用のピットが付設されていた。この製パン竃は、当初陸軍が建設したものの、度々破損していたことから、捕虜の設計・施工による竃の改築が行われており、この経緯を記した陸軍文書や捕虜の発行した収容所新聞が見つかっている。確認した遺構はこの改築後の竃の基礎にあたると考えられる。 捕虜の私物や土木作業用具などを保管していた倉庫棟の調査では、測量図に記された東西9.3m、南北約37mの建物のうち北端部分の基礎を検出した。しかし、レンガ積みの基礎は、上半部を撤去した後で残りの基礎を利用して、その上部にコンクリートの土台と花崗岩(かこうがん)の柱礎石を設置していた。これは、収容所閉所後に陸軍演習場の厩舎(きゅうしゃ)施設に建て替えられた際の基礎と考えられ、閉所後の施設利用の変遷も把握することができた。 このほかにも、収容所管理棟や廠舎第2棟、将校棟附属厨房、酒保(しゅほ)(売店)附属便所、給水施設および上下水管について調査をおこない、これらについても配置や基礎構造を確認することができた。また、収容生活中に死亡したドイツ兵を弔うための慰霊碑(ドイツ兵の慰霊碑:徳島県指定史跡 H19.2.16指定)が捕虜の手によって所内に建立されており、これに付随する池に面した石垣も良好な状態で残存することを確認した。

(4)関連資料による遺跡の検証

(5)総括

2.現状及び現在までの調査・保存の経緯

明治43(1920)年頃以降陸軍第11師団(本部:香川県善通寺市)歩兵第62連隊(本部:徳島市蔵本町)所管の演習場用地として用地の買収が始まる 大正6(1917)年4月板東俘虜収容所の開設(ドイツ兵捕虜の収容開始) 大正9(1920)年4月板東俘虜収容所の閉所(捕虜全員の解放後) 昭和20(1945)年終戦まで陸軍の演習場として使われる 終戦後、大陸引揚者の住宅として利用が始まる 昭和42(1967)年県営大麻団地の建設 昭和53(1978)年度鳴門市ドイツ村公園(子ども広場)の開園 平成18年(2006)年3月31日埋蔵文化財包蔵地として『徳島県遺跡地図』に登載 (遺跡番号 202-293) 平成19(2007)年2月16日収容所跡地内に所在する「ドイツ兵の慰霊碑」が徳島県指定史跡に指定 平成19~23(2007~2011)年度収容所跡地の確認調査(鳴門市教育委員会実施) 発掘調査・地形測量調査

日本に残ったドイツ人捕虜たち:坂東収容所の生活

Die Aufnahme durch die japanische Bevölkerung war im allgemeinen freundlich. Deutsche Zivilisten, die in Japan lebten, blieben die ganzen Kriegsjahre über in Freiheit und wurden nur in ihren wirtschaftlichen Aktivitäten eingeschränkt.
Post an die Gefangenen wurde manchmal mutwillig vernichtet, und Pakete wurden mitunter ausgeraubt. Auch Sprachprobleme führten zu allerlei Mißverständnissen und Komplikationen. Offiziere wurden in separaten Häusern untergebracht, teilweise wohl, um konspirative Pläne zu unterbinden, teilweise aber auch, um sie besserzustellen. Der sich nach dem Krieg bildende Mythos von der 'gemütlichen Kriegsgefangenschaft 'in Japan war daher nicht immer voll gerechtfertigt

そんなわけで、ドイツの捕虜たちは日本に点在する捕虜収容所に収容され、そのうち多くは 「坂東収容所」という徳島にある捕虜収容所に移送されました。 上述のようにトラブルもあったようですが、やがて、ドイツ人たちはこの捕虜収容所での生活を満喫し始めます。

Die Japaner unterhielten eine Kantine, in der die Gefangenen einkaufen konnten, soweit sie über finanzielle Mittel verfügten. Außer den Spenden von deutscher Seite erhielten die Gefangenen den gleichen Sold wie japanische Soldaten. Ihre Finanzen konnten die Gefangenen mitunter durch Arbeit in den umliegenden Orten oder durch den Verkauf eigener Produkte aufbessern.
 
 
 

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