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彼方 から 二 次 創作

  • Writer: Rolf Reeves
    Rolf Reeves
  • Sep 22, 2023
  • 65 min read

宵闇異聞録 ~ 母情 ~ (2)

玄関の鍵を開ける音で、私は目を覚ました。 自室から顔を覗かせると、溜め息と共に靴を脱ぐ、真輝様の姿があった。 「おかえりなさいませ、大分、お疲れのようですね」 「え? あぁ、悪いね、起こしちゃったかい?」 「いえ、お気になさらずに」 鞄を持って差し上げようとして伸ばした手を、彼は微笑みで断ってきた。 「僕は、神崎さんの主人じゃない。そうゆうのはお断りだと、前に言わなかったかい?」 「――そうでしたね。申し訳ありませんでした」 私の謝罪に、彼は再び微笑で応え、ダイニングへと向かった。 真輝様は、私のこうした態度を酷く嫌う。 私にとっては、至極当然のように思える行為なのだが…… 『様』を付けて呼ばれる事も、敬語で話される事も、本当はお嫌らしい。 だが、そこだけは、私が頑として譲らなかった為に、今では黙認して下さっている。 ダイニングから漏れた明かりが、廊下を照らし出す。 私は、彼の為に何か――つまり厚意を見せる事にする。 純粋に、厚意から出た行動は、断られた事が無いからだ。 「何か、お食べになりますか?」 冷蔵庫を覗き込んでいる真輝様に、私はそう、声を掛けた。 「あー、うん、そうだな……じゃ、悪いけど、お茶漬けをもらえるかい?」 「はい。少しお待ちを」 彼がテーブルに向かうのを確認し、私は仕度を始めた。

「こんな時間まで、どこで取材をなさっていたのですか?」 大き目の茶碗に浅くご飯を入れ、解した鮭の身と揉み潰した海苔、それに浅葱を掛けたものを、熱いお茶とお新香を添えて出す。 「繁華街に居る猫をね、取材していたんだよ」 急須からお茶を注ぎ入れ、箸でご飯と具を混ぜ合わせながら、答えてくれる。 「そうですか」 「ああゆう所は鼠も多いし、残飯なんかも沢山出るから、野良猫も結構居るんじゃないかと思って行ってみたんだけど……」 さらさらと茶漬けを掻き込み、吐いた息と共に、真輝様は話を続ける。 「意外と、居なかったよ――――」 茶碗を一旦置き、お新香へと箸を伸ばす彼の表情が、どことなく曇って見える。 「何か、気になることでも?」 「えっ? ん――まぁ、ね」 そう言って微笑み、残りの茶漬けを流し込む。 私は急須を持つと、新しい茶葉に換える為、流し台に向かった。

「取材中、妙な男を見掛けてね」 「妙な男……ですか?」 パソコンを開き、カメラの画像を映し出しながら、真輝様はそう言った。 クリックされる度に移り変わる画面。 色んな角度から撮った、猫の写真ばかりが続いた。 「こいつだよ」 お茶を啜りながら、私に目配せをしてくる。 見るとそこには、何かを見ている男を、後ろから撮った画像が映っていた。 「何を、見ているんでしょうか……」 雑踏に紛れるように立つその男の視線の先に、『何か』があるようには見えない。 「猫がね、居たんだよ」 真輝様はそう言って、マウスのボタンを押した。 画面に、横顔のアップが映る。 その瞳を見た途端、背筋に何か、嫌なものが奔った。 「異様、だろ?」 「――――」 「僕は、殺意を感じたね」 異議など無かった。 確かに、『殺意』と呼んで差し支えないモノを、私も感じていた。 「物陰から飛び出した猫に、この男は酷く驚いて、そして睨み付けていた。猫が逃げた後も、暫くこうして、睨んでいたよ」 「は……? まさか、そんな」 ただそれだけの事で、これほど不快な目付きが出来るものなのだろうか。 よほどの猫嫌いか、さもなければ、腹の居所が―― そこで、思考が止まった。 思い当たる節が、あるからだ。 私は無意識に、パソコンの画面から体を離していた。 「この男が歩き出した時、黒猫が一匹、後を付いていったんだよ」 「え……」 まるで、私の頭の中を覗いたかのような真輝様のセリフに、一瞬、体が強張るのが分かった。 「潰された仔猫たちの母親は、黒猫だったって、言ってなかったかい?」 「それは……」 確かにその通りだ。 だが、あの湖の公園から繁華街までは、いくらなんでも遠過ぎる。 犬なら、『男の匂いを追って』という事も考えられるが、猫では―― それより何より、この男が『猫殺し』の犯人だという証拠が、無い。 真輝様の目撃談とこの画像だけで、決め付ける事など出来ない。 「偶然、ではありませんか?」 「僕は、そう思えないんだけどね」 私は思わず、彼を見ていた。 「猫は、執念深い生き物だって、聞いた事ないかい?」 一呼吸の間を置いてそう訊ねた後、真輝様は画像を閉じた。 数時間前に感じた『胸騒ぎ』が、蘇ってくる。 不確実で曖昧な事柄に囚われないよう、理路整然と考えようと努めても、勘と呼ばれる感覚的なものが、それを否定する。 「何か、起こりそうな――いや、もう、起こっているのかも、しれないね」 パソコンを鞄に仕舞いながら、そう呟く彼の横顔に、あの薄い微笑が浮かんでいる。 やはり、あれは気のせいではなかったのだと、改めて思う。

あれから、ほぼ丸一日が経とうとしている。 男は、夕闇の迫る、いつもの駐車場に車を停め、トランクからリュックを取り出していた。 いつものように感触を確かめ、肩に掛ける。 リュックから伝わる『温度』にほくそえみ、歩き出そうとして動きを止めた。 警戒するように辺りを見回している。 しつこく、何度も。 だが、何も見つけられず、男は小さく舌打ちをし、リュックを元に戻した。 トランクを閉めながら、ズボンのポケットに手を入れる。 指先で、ナイフの感触の確かめながら、昨夜の事を思い返していた。 あの後――猫に驚かされた後、男は誰かの視線をずっと、感じていた。 アパートに帰り着くまでに何度も振り返ったが、後ろを尾けて来る者の姿など、見つけられなかった。 気のせいだと、男はそう思う事にした。 現に、部屋に入ってからは、視線を感じなくなったからだ。 なのに今、昨夜と同じ視線を感じている。 どこで、誰が見ているのか分からない不気味さに、男は不安と同時にストレスを感じた。 自分のやっている行いが、法律上では犯罪になる事を、男は知っている。 一旦、車から離れ、ウォーキングコースへと向かう。 時間を潰し、もう少し辺りが暗くなるのを待つ事にする。

肩を窄め、俯き歩く。 ポケットの中のナイフを握り締める。 男は、捕まりたくなかった。 自分にとって唯一の『癒し』である『猫』を、それを『駆除』する行為を、取り上げられたくなかった。

「ただいまーっ、腹減ったーっ!」 「お帰りなさいませ、もうすぐ夕飯になりますよ」 いつもより、少し遅いご帰宅。 ご友人と、寄り道でもしておられたのだろう。 ふと見た窓の向こうの空が、朱に染まりつつある。 「んじゃ、先に風呂に入るけど、いいか?」 「はい、どうぞ」 良輝様が帰って来られると、何故だか急に、家の中が騒々しくなる。 だが、この騒々しさは、ごく最近になってからのものだ。 いくら、真輝様を『兄貴』と慕っているとはいえ、居候を始めた当初の良輝様には、『遠慮』というものが確かに存在していた。 今は…………良き変化だという事にしておきたい。 多少の心配はあるものの、その騒がしさを最近では、心地良く思えるようになってきたのだから。 「どうしてあいつが帰ってきただけで、こうも五月蝿くなるんだろうね」 「真輝様」 ばたばたと、大きな足音を立てて自室に戻ってゆく良輝様を笑顔で見やりながら、入れ替わるように真輝様がダイニングに顔を出して来られた。 「真輝様も、お腹が空いたのですか? もう少し、夕飯までに間が欲しいのですが」 「えっ? ははっ、違う違う。僕は用があって来たんだよ」 「私にですか? なんでしょう」 頷く彼に、私は支度の手を止め、歩み寄った。 「昨夜のご婦人方から電話があってね、今夜あの公園で、助力してくれている獣医さんが、猫の健康診断を兼ねて話をしてくれるそうなんだよ。良かったら、神崎さんも一緒に来ないかい?」 「そうですね――お言葉に甘えて」 私に、断る理由は無かった。 「それは良かった、出来れば助手を頼めないかと、思っていたんでね」 「私を誘った本来の目的は、そちらですか?」 「まぁね」 にこやかに認める彼に、思わず苦笑いが零れる。 「なんか面白そうだな、俺もいいか? 兄貴」 下着姿でダイニングに顔を出し、良輝様までそう言ってくる。 「別に、構わないよ。邪魔をしなければね」 「しないしない。じゃっ」 満面の笑みで手を振りながら、良輝様はお風呂場へと向かわれた。 「やれやれ」 溜め息は吐いているが、本気ではないだろう。 その証拠に、口元が綻んでいる。 彼も内心嬉しいのだ、良輝様に甘えて貰える事が。 「昨夜の駐車場より少し北にも、駐車場があるそうなんだけど、そこに九時集合という事で。いいかい? 神崎さん」 「はい、かしこまりました」 キッチンに向かおうとする私にそう声を掛け、真輝様は自室に戻ってゆく。 再度、夕飯の支度に取り掛かる前に、もう一度、窓の向こうを見た。 空が、大分暗くなって来ている。 また、あの胸騒ぎがする。

男が再び駐車場にやって来た。 トランクを開け、リュックの温かみと感触を、確かめている。 先ほどの事があったせいか、今度はすぐにリュックを取り出そうとはせず、辺りを警戒し始めた。 どうやら、今は視線を感じないようだ。 それでもまだ安心出来ないのか、ゆっくりとリュックを取り出しながら、視線を四方へと散らしている。 慣れた手付きで肩に掛け、大股で歩き出す。 ポケットの中に片手を突っ込み、中のナイフを握り締めている。

男の警戒心は解かれない。 だが、極上の一時を味わう事を、止めるつもりも無いようだ。 男の歩みは次第に速まり、その目は前方を睨み付けている。 邪魔の入らない内に、あの場所へ――自分だけの場所へ、逃げ込む為に。

「今日は、ご協力ありがとうございます」 真輝様がそう言って深々と頭を下げると、昨夜のご婦人方と獣医師らしき男性が、釣られて頭を下げた。 どこにこれだけの数が――そう思えるほど沢山の猫が、あまり広くない駐車場に集まっている。 隅に一台だけ停まっている車が、邪魔に思えるほどだ。 「じゃあ、悪いけど神崎さん、猫や餌やりの様子を、写真に撮ってもらえるかい?」 いつもの人懐こい微笑で、目の前にカメラを差し出してくる。 助手とはつまり、こうゆう事かと思いながら、私はカメラを受け取った。 「すっげー、数! あっ、俺も餌、あげてみていいですか?」 キャットフードを器に入れ始めたご婦人に気付き、良輝様は興奮冷めやらぬ様子で、近づいてゆく。 確かに、普段の生活の中では、猫自体をあまり見掛ける事が無い。 特に嫌いでない限り、テンションが上がるのは分かる気がする。 鳴き声を上げながら、餌の入った器に群がり始める猫を見回す。 野良猫らしく、ちょっと触るのに抵抗を覚えるような薄汚れたものから、血統書が付いていたのではと思えるようなものまで居る。 怪我をしているものや、仔猫の姿まで――ある。 屈託無く、良輝様はそれらの猫を撫で始めた。 嫌がり、逃げ出そうとするものを無理矢理抱き上げ、至極満足そうな微笑を浮かべている。 私は、助手の仕事を全うすべく、様々な角度からシャッターを切った。

微かに、あの黒猫の声が、聴こえたような気がした。 集まった猫達の声に交じり、何故かハッキリと、耳に届いた。 「どうした? 神崎」 動きの止まった私を不審に思い、先ほどとは違う猫を抱えながら、良輝様がそう訊ねてくる。 「いえ……黒猫の声が――」 「は? 黒猫って、あの、黒猫か?」 首を傾げ、良輝様は足元に群がる猫達に目を向けた。 「こいつらのと、聞き間違えたんじゃねぇの?」 「……かも、しれませんが――」 それは、正論かもしれない。 だが私は、どうしても聞き間違いとは思えず、彼女の姿を求め捜した。

「――――っ!!」 もう一度聴こえた。 いや、『聴こえた』と言うよりは、『感じた』と言った方が近いのかもしれない。 どの方向から聴こえたのか、それすらも分からないのに、私の足は自然と、湖の方を向いていたからだ。 「神崎?」 カメラを機材ケースに仕舞い、良輝様の声を頭のどこかで捕らえながら、私は歩き出していた。 「おいっ、神崎っ?!」 駐車場から伸びる、ウォーキングコースへと続く道。 その左右に広がる芝生に点在する茂みの中に、淡く白い光に包まれた黒猫の姿が見えた。 「あそこに、あの猫が……」 「はぁっ? 何言ってんだよ」

駆け寄って来た良輝様に、位置を示そうとしたその時、それを嫌がるかのように一声無き、彼女は湖の東側へと走り出した。 「あっ、待ってくださいっ」 「神崎っ!?」 咄嗟に、私も走り出していた。 ここで、彼女の姿を見失ったら、最後まで見届ける事が出来なくなるような、そんな脅迫めいた想いに、急き立てられていた。

後方から、真輝様を呼ぶ良輝様の声がする。 いつもの私なら、こんな身勝手な行動など、決して取らない。 まるで、何かに憑かれたかのような衝動に戸惑いながら、私は只管、彼女の姿を追い求めた。

ここまで来れば、もう警戒する必要など無かった。 この場所を知っているのは、自分一人だけのはず――男はそう思い、いつものように鍵を開け、中に入った。 ランタンは、変わらぬ小屋の内部を照らし出してくれる。 充満している饐えた香りの中に漂う、血の匂い。 床にこびり付いた血肉の中に混じる猫の毛を確かめ、男は更に安心する。 ここは間違いなく、己だけの癒しの空間であり、誰からも害される事は無いのだと。 リュックを肩から下ろし、ビニール袋と身動きを封じた猫を、取り出す。 小さな唸り声を上げ、無駄な抵抗を止めない猫を嘲り、頬を歪めた。 何をされるのか理解出来ずとも、身に迫る危機は察知出来るのだろう。 猫は袋に入れられる寸前、あらん限りの力で身を捩り、男の手から逃れ床に落ちた。 だが、四足が縛られた状態ではそれ以上どうする事も出来ず、猫は、怒りを篭めた瞳で男を睨み付ける。 「……猫のクセに、一丁前に命が惜しいのか? お前」 ささやかと呼べる抵抗に、男は憤りを隠せない。 落ちて尚、睨み付けてくるその瞳が、我慢ならない。 男は、毛を逆立て威嚇する猫の腹に、容赦のない蹴りを入れていた。 鈍い音を立て、猫は小屋の薄い壁に当たり、落ちる。 大きく腹を波打たせ、目も、閉じてしまっている。 男の一撃は、猫にとって致命傷に近いものだった。 「猫の分際で、人間様に抵抗してんじゃねぇよ……どいつもこいつも――俺の前から居なくなりゃいいんだ……」 舌を、ダラリと垂らした猫にゆっくりと歩み寄り、男は掴み上げようとした。 「――っ!?」 何かが、背後を走り抜けたような、気がした。 伸ばした手を止め、屈んだままの格好で、肩越しに後ろを見る。 ランタンの明かりは、男のリュックとポリバケツ以外の物を、照らし出してはいない。 誰も居ない事は分かっている。 ランタン一つで照らし切れるほどの広さしかない小屋の中、『誰か』が隠れる事など出来ない。 男は自身にそう言い聞かせ、もう一度、猫を掴み上げようとした。

「――ひっ!」 明らかな猫の威嚇音に、男は思わず体を竦めた。 自分以外、誰も、何も居ないはずの場所。 これまで、何十回と猫を踏み殺してきた場所。 今まで一度たりとも、こんな事は無かった。 「ねっ、ねね、猫――猫なのかっ? ど、どこから入りやがった」 入れる隙間など、無い事ぐらい男にも分かっていた。 だが、『どこからか』入って来たのだと、そう思い込みたかった。 落ち着きを取り戻そうと、ランタンを手に持ち、深呼吸をする。 事務机の下を照らす。 居ない事に安堵しながら、他を探さねばならない事に、不安が増す。 微かに震える手足を、やっとの思いで動かし、男は、ポリバケツの方に向かった。 ほんの数歩のはずなのに、そこまでの距離がやけに遠く感じる。 見慣れた景色に違和を、足元から満ちてくるような重苦しい空気を感じ、男は頻りに、小屋の中を見回していた。 一歩近付く度に、『何か』の気配が強くなってくる。 ここから、逃げ出したくなってくる。 「で、出てきやがれ、バカ猫……」 だが、男のちゃちなプライドが、それをさせなかった。 猫ごとき、捕まえて踏み殺せばそれでお終いだ。 人など決して入れない。 きっと、気付かない場所に穴が開いていて、そこから入ったに違いない――感覚が発する『警報』に、男は気付かぬフリをした。

完全に見失ってしまった。 ウォーキングコースから外れ、公園の敷地からも外れ、私は公道に出てしまっていた。 遅い時間帯のせいか、車は滅多に通らない。 有難い事に、街灯はしっかりと設置されているから、暗くはないが…… 辺りをどれだけ見回しても、黒猫の影も形も―― 「一体、どこへ……」 湖の東岸を走るコースは、緑の豊かな散策タイプになっている。 その名残のように、公道を挟んだ向かい側に、手付かずの雑木林が広がっている。 街灯の光が多少届いているとは言え、足を踏み入れるのが憚られるほど、鬱蒼とした様相を呈している。 その雑木林の奥が、何故か気になった。 起伏が激しいのか、数メートル先に、斜面のようなものが見える。 人跡未踏の地――とまでは言わないが、頻繁に訪れる者も、居ないと思われる場所。 私は、ウェアのポケットを探った。 いつも忍ばせてある、携帯用のライトを手に取る。

林に一歩入り込んだ途端、まるで待ち兼ねたかのように、あの声がした。 斜面の向こう、明らかに奥の方から。 「神崎ーっ! どこに行くんだよーっ!!」 私の姿が視認出来たのか、遠くから良輝様の声が聴こえる。 だが、止まろうとは思わなかった。

あの声が、彼女が私を誘っている。 早く来てと、そう言っているように思える。 携帯用のライトが、足元を頼りなく照らし出す。 私はなるべく、高低差の少ない斜面を選び、自身の感覚に導かれるまま、奥へと、歩を進めた。

男は、恐れ戦く体に鞭打つようにして、ランタンでバケツの奥を照らしながら、亀のように首を伸ばし、覗き込んだ。 「ひ――っ!」 光に反応し煌めく眼光が、確かにそこにあった。 あれだけ、自分よりも劣る存在として、蹂躙し尽くした存在であるはずなのに、今、招かれざる客として現れた猫に、男は怯えている。 対面の壁まで後退り、ランタンを突き出して――ナイフを握り締めた。 バケツ同士の隙間から、金色に光る猫の目が見える。 低い、低周波のような唸り声が、波打つように聞こえてくる。 それらが一つ――また一つと、増えてゆく。 「な、なな……何で――」 瞳が、光る瞳と唸り声が、気配と共に数を増し、満ちてゆく。 猫の『姿』は、見えない。 男は見えない敵を威嚇する為、ナイフの刃を出した。

唸り声と混じりあったような鳴き声が、一際大きく聴こえる。 男は不意に足元に強い気配を感じ、ランタンを向けた。 「――――どうして、お前が……」 ナイフを持つ手が、大きく震えだす。 見開かれた男の目に映ったのは、一匹の黒猫だった。 頭を低く下げ、尾をゆったりと振り、視線を逸らせばすぐにでも飛び掛かって来そうな、そんな構えで見据えている。 男は、ランタンの代わりに、ナイフの刃先を猫に向けた。 「あ、ありえない……そんな訳がない……お、お前は、この俺が――この俺が確かに、蹴り殺したはずなんだ…………あの、仔猫と一緒に――――」 震える、男の呟きに合わせるように、黒猫は牙を剥き出した。 時に高く、そして時に低く唸りを響かせ、一歩ずつ、男に近づいてゆく。 「来るな、く――来るなっ!」 無意味に振り回されるナイフが、ランタンの光を冷たく弾いている。 仔猫を庇って立ちはだかる姿が、男の脳裏に蘇ってくる。 男は、激しく威嚇してくる黒猫を蹴り飛ばしていた。 無様な鳴き声と共に、藪の中に落ちてゆくのを追い、頭を蹴り付け止めを刺した。 そう、男は確かに、『蹴り殺して』いた。

黒猫の歩みに合わせ、男はじりじりと後退りながら、扉へと移動してゆく。 顔も、体も背けているのに、目だけはどうしても、外す事が出来ない。 小屋の中『気配』は、ずっと増え続けている。 それは視線として、鳴き声や唸り声として、恰もそこに実在するかのように、男に迫ってくる。 扉に辿り着いた。 ランタンを置き、取っ手に手を掛け、猫を刺激しないよう、ゆっくりと回した。 「――――っ?!?」 開かなかった。 男は焦り、何度も、何度も取っ手を回す。 その度に、カチャカチャと無機質な音を立てるだけで、扉は開かなかった。 「開けよ、開けよっ! 何で開かないんだよっ!!」 取っ手を掴み、体を押し当て、男は自らの力に訴え始めた。

もう一度、腹の底から搾り出したような唸り声が聴こえる。 男は動きを止め、恐る恐る、声がした方に顔を向けた。 さっきと変わらぬ姿勢で、黒猫が見据えている。 その背後が揺らぎ、ありえない形を成してゆく。 「あ……」 浮き出て来たものは、男がこれまでに踏み殺してきた、猫達の姿だった。 男は、両手でナイフの柄をしっかりと握り、猫達と向き合う。 恐怖を体が感じているのか、カチカチと、歯のかち合う音が聞こえてきた。 先頭に立つ黒猫と目が合う。 自分を見詰めるその瞳に、かつて母と呼んだ女の瞳が重なった。 【猫の方が……】 そう言って、女は手を上げだ。 【あんたなんかより……】 そう言って、ろくに食事も作らなかった。 【あたしの子に触らないで】 そう言って、女はぬいぐるみを抱き締め、白い部屋に送り込まれた。

「みんな、あんたのせいだ……」 物心付いた時、既に二人暮しだった。 それでもまだ、最初の数年は、『マシな方』だった。 一応『まとも』に、学校に通えていたからだ。 何時ごろからおかしくなり始めたのか、男には思い出せなかった。 最初からだったような気も、していた。 母親が、どうしてあれほどまでに猫を溺愛したのか、男は知らない。 本物の猫を飼った事など、一度も無い。 少なくとも、男にその記憶はなかった。 理不尽だった。 何も理解出来ず、訳を教えてくれる者も居なかった。 身の回りの事だけでも手一杯だと言うのに、次第に何もしなくなってゆく、母の世話までもしなくてはいけなかった。 どれだけ物事をこなそうとも、褒めてくれるべき人から与えられるのは、謂れの無い暴力のみ―― 女の支配から逃れられたのが何歳頃の事だったのか、今ではそれすらも、良く思い出せなくなっていた。

男はそう思っていた。 事の原因は全て、あの女と『猫』にあると。 無数の双眸に見据えられ、男はそれから逃れる為、ナイフを振った。 やっと自由に、自分の思うままに生きられるようになったのに、今更『猫』などに、あの女の影などに、支配されたくなかった。 「殺してやる……みんな、みんな――殺してやる……」 男の瞳に、狂気の色が見える。 恐怖と混ざり合い、次第に焦点を失っていった。

林の奥、何か、大きな建物の塀の傍に、小屋のような影が薄っすらと見える。 ライトの光を舐めるように当て、外観を確かめる。 良く、建築現場などで見掛ける、プレハブ式の休憩所のような感じの小屋だ。 蔦の絡まり方が尋常ではない、恐らく何年も放って置かれた物だろう。 だがその蔦も、扉の部分だけ、きれいに取り払われている。 ――人の気配がする。 こんな時間にこんな場所で。 後ろ暗い雰囲気が、漂っている。 私は慎重に足を運び、近づいた。

不意に響いた男の叫び声に、私は足を止めた。 耳を澄ます…… 声は確かに、中から聞こえて来た。 「神崎っ! 待てよっ!!」 もう一歩、小屋に近づこうとして、呼び止められた。 振り返ると、ライトを私に向け、良輝様が息を弾ませながら走り寄って来る。 「どうしたんだよ、勝手に――はぁ、はぁ、勝手に走り出しやがって」 「申し訳ありません……あの黒猫の姿を見掛けたもので、つい――」 膝に手を付き、肩で息をなさっている良輝様を前に、私は素直に非を認めた。 「……居たのか? 俺、気が付かなかったけどな」 頬から顎先へと流れる汗を手の甲で拭い、良輝様はライトを向けながら、周囲を見渡した。 「良輝っ、見つけたのかっ?!」 「兄貴っ」 その光に反応するように、真輝様の声が、後方から響いてくる。 「やれやれ、こんな所に来る羽目になるとはね」 「済みません」 ガサガサと藪を抜け、服に付いた葉を払い落としながら、少し嫌味っぽく、それでいて何故か楽しそうに、真輝様は私に微笑み掛けた。

《バタンッ! ガラガラガラッ……》 《殺してやるっ、殺してやるっ!!》

「誰か居るじゃん――暴れてるのか?」 「みたいだね……'殺してやる'とは、穏やかじゃないけどね」 小屋から伝わる物々しい気配と音は、否が応でも、警戒心と緊張感を高めてしまう。 気になりながら、どうしても、遠巻きに眺めてしまう。 「入ってみましょう」 私はそう言って、再び小屋に向かって歩き出した。 そうしなければ、私は求める者を得る事が出来ないと、分かっていたからだ。 苔生した扉の、取っ手だけが異様にキレイだ。 軽く回して引くが、鍵が掛かっているのだろう、開かない。 互いに顔を見合わせるお二人はきっと、どうするか迷っておられるのだろう。 だが私は、そこらにあった少し大き目の石を拾い、躊躇無く、取っ手を叩き壊した。

「開けますっ!」 鍵が壊れ、扉に軽く隙間が出来たのを見止め、私はお二人に了承を得る事無く、思い切り開け放った。 「――っ!?」 「ぐっ……」 「うぇっ?! げぇっ! なんだよ、この臭い……」 一瞬、たじろいだ。 中の様子を確認するよりも早く、未だ続く男の奇声と『臭い』が、侵入と視界を阻んで来る。 涙で滲む目に最初に入って来たのは、闇雲にナイフを振り回す、男の姿だった。 「殺すっ、殺すっ、コロスッ、ころすっ!!」 ただそれだけを、繰り返し口にしている。 両肩を大きく揺らし、瞳を忙しなく動かしては何かを睨み付け、垂れ下がった口角からは、涎が溢れ出ていた。 「神崎っ、床、床っ」 扉から一歩離れ、片手で鼻を覆いながら、良輝様が指で示してくる。 私は男から、小屋の中へと視線を移した。 床にはランタンと、幾つものポリバケツが倒れ、その中身がぶちまけられている。 厚手のビニール袋が散乱し、その内の何個かは破れ、得体の知れない液体が流れ出ていた。 恐らくそれが、この臭いの元凶だろう。 私は、まだ破れていない袋の一つを手に取った。 「これ、は……?」 一目見ただけでは、一体何が入っているのか、判断しかねた。 分かるのは、液体だろうと言う事。 全体的には赤黒く見えるが、どんなものなのか分からない。 『毛』に見えるものも、入ってはいるようだが…… 触感を確かめるべく、袋の上から握ってみる。 抵抗も無く、加えられた力に合わせ袋は歪み、流動する中身から、多少の固形物も混じっているのが分かる。 「――――」 想像したくなかった。 だが、意に反して、脳は勝手に推測を始めてしまう。 ――嫌なモノが、胃から這い上がって来た。

それは、真輝様から発せられた言葉だった。 「マジかよ……ち、ちょっと、見せてくれよ」 彼は、悪臭がするであろうと予測されるあの袋を開け、中身を確認していた。 良輝様はそれを覗き込み、数秒と持たずに顔を背けると、近場の木に凭れ、吐き始めた。 男は、動物のような唸り声と、意味不明な言葉を巻き散らし、まだ暴れている。 私達の存在にすら気付いていない。 狭い小屋の中を動き回り、視線を彷徨わせ、何かを払うようにナイフを振り続けている。 「あの男、見覚えがないかい?」 そう問われ、私は改めて男の顔を見た。 涎と汗と、飛び散ったと思われる液体で汚れた男の顔を。

……目が、合った。 再び、背中に嫌なものが奔った。 「――まさか」 脳裏に浮かんできたのは、昨夜見せられた、男の横顔。 あの、殺意に満ちた瞳。 「僕たちが感じた殺意は、本物だった……って、事だね」 真輝様は、まだ倒れていないポリバケツを見やり、そう呟かれた。 どれだけの数の猫を、この男は殺めたと言うのか。 この公園を棲家としている猫達だけではなく、他の場所からも攫い、ここで、殺してきたに違いない。 でなければ、このバケツと、散乱している袋の数の説明が付かない。 何故、後生大事に、己の殺した猫の残骸を、ポリバケツなどに溜めているのか。 その前に、何故、このような行為が出来るのか…… あの仔猫達は、この男の『狂気』の巻き添えを、偶々、食ってしまったのか―― 「何、呆けてんだよっ! 止めなくて良いのかよっ、あの男っ!!」 「よ、良輝様」 そう、怒鳴り付けられ、私達は我に戻った。 そうだ、考える事など後でも出来る。 今は、止める方が先だ。 そうしなければ、何一つ、聞く事は出来ない。 この男がした事を、その罪を。 だが…… 「止めろって言われてもねぇ――」 苦笑を交えながら、真輝様がそう、呟かれた。 近付こうとする度に振るわれるナイフを避けながら、この状況を苦慮されているのが分かる。 どうにかしなければならないのは分かっていても、出来れば怪我などしたくないし、この男にもさせたくないのだ。 それは私も同じだ。 なるべく安全に取り押さえようと、何度男の背後に回り込んでも、何故か気付かれ、ナイフを向けられる。 彼と二人で、どちらかに注意を向けさせようとするのだが――どこを見ているのか分からないような目つきのクセに、その誘いには乗って来ない。 「け、警察呼んだ方が、良くねぇかっ?」 膠着状態と見たのか、良輝様が携帯を出しながらそう提案してくる。 「頼むよ、数に頼んだ方が良さそうだ」 「分かったっ!」 即断した真輝様の言葉に従い、小屋から少し離れた所で、良輝様が携帯を耳に当てた時だった。 「そこかぁっ! そこにいたのかぁっ!!」 「なっ!?」 「あっ!!」 暴れながらも、小屋から出ようとはしなかった男が、急に真輝様を突き飛ばし、外へと飛び出した。 ――携帯を耳に当てたまま、思わず身構える良輝様に向かって。 「お止しなさいっ!!」 男の腕を、咄嗟に掴んだ。 涎を撒き散らし、目を血走らせ、男は振り返り様、己の動きを妨げている私の手に向けて、ナイフを振り下ろして来る。 「くぅっ!」 残った手で、辛うじてナイフを止めた。 「神崎っ!!」 駆け寄ろうとしてくださる、良輝様の姿が、視界の端に映る。 「大丈夫ですっ、それよりも、良輝様はそのまま公道まで出て、警察へ電話をっ!」 「わ、分かったっ」 携帯の淡い光が、枝葉の擦れる音と共に遠くなってゆく。 男はそれを追い駆けようと、尋常ならざる力で、私の手から逃れようと藻掻き始めた。 「止めろっ!」 ナイフを持つ方の手を、後ろから真輝様が押さえに掛かる。 それを見て私は、もう片方の手を押さえに掛かった。 大の男が二人掛かりで押さえ込もうとしているのだ、何とかならないはずが無い。 だがそれは、考えが甘かった。 「ぐわあぁぁぁっ! 離せっ、寄るなっ、この――クソ猫ぉぉっ!!」 男の尋常ならざる力は、予想以上だった。 「離しやがれっ!」 「――っ!!」 片腕一本で真輝様を払い除け、すかさず私にナイフを向けて来た。 仕方なく男の腕を放し、飛び退るしかなかった。 「ふーっ、ふーっ――ふざけ、ふざけやがって……」 男は、惰性のようにナイフをまた、構えた。 開け放たれたままの、小屋の扉から漏れてくるランタンの明かりが、周囲に陰影を作り出し、男を背後から照らしだした。 「コロス……殺す、絶対に、殺す」 耳を澄まさなければ聞き取れないほどの小さな声で、男はそう、呟いていた。 動きを止め、地べたの一点を見詰めるその目に、私達は、映っていない。 小枝を踏み折る音がする。 真輝様がゆっくりと、男の背後に回ろうとしている。 もう一度、押さえ込んでみようと言うのか。 私は、彼の動きをサポートする為、男の眼前にこの身を晒した。

「ぎゃあぁぁーーっ!! 離れろっ、離れろぉっ!」 こちらに注意を向けさせようと、一歩踏み出した時だった。 男はあらん限りの声で叫び、自分の胸の当たりを毟り始めた。 必死に何かを払う仕草を繰り返し、勢いあまって倒れ込んでゆく。 この機会を逃してはならない。 私は一気に押さえ込もうとした。

あの黒猫の声が、頭に響いた。 背筋に悪寒が奔る。 脚が、動かない。 倒れ込んでも尚、手足をバタつかせている男。 その男の胸の上に影が――影が見えた。 あの黒猫の影が…… 「苦しいっ! 止めろっ、退けぇっ――このクソ猫、クソ猫おっ!!」 彼女は、男の喉元を押さえ付けていた。 怒りを露にした形相で私を見るその瞳は、『手を出すな』と、そう言っているように思える。 男にも、見えているのだろう。 自分を押さえ付け、胸の上に立つ彼女の姿が。 そして、彼女が何をしようとしているのか、私には分かる気がした。

そんな事、させてはいけない気がした。 その一方で、彼女の行為を止める事に何の意味があるのか、そう思う自分も居た。 「殺してやる、殺してやるっ、猫の分際で、この俺を――俺をっ!」 男の手が、彼女の体を掴んだ。 いや、掴んだように見えた。 実際には、手は彼女の体をすり抜け、男は自身の胸座を掴んでいるだけだ。 剥き出された牙が、男の首に向かって降りてゆく。 「うぎゃあぁぁっ、やめろっ、やめろやめろやめろぉっ! 退けっ、離れろっ、クソ猫クソ猫クソ猫ぉっ!!」 「――――っ!」 男のナイフが、高く上げられてゆく。 今ならまだ間に合う、止められる。 この男がどんな奴だろうと、死よりも先にさせねばならない事がある。 なのに、どうしても動いてくれない脚を、私は憤怒の思いで睨み付けた。 「……な」 目に映ったのは、脚に絡みつく無数の影。 実体の無い足枷。 その影の全てが猫だと気付くのに、時間は掛からなかった。

扉から漏れるランタンの明かりが、小屋の天井や壁を、そして立ち尽くす私達を、照らし出していた。 中に散乱しているポリバケツやビニール袋が、その光を鈍く反射している。 地べたに横たわる男を前に、私は自身の無力を、感じていた。

こうなる前に、どうにか出来たはずだ。 その気になれば…………止めよう、所詮、後悔に過ぎない。 恐らく、そう思いたいだけなのだから。 私達は、何も出来なかったのだ。止められなかった。 どう足掻こうと、きっとそうさせては、貰えなかった。 ぼんやりと、光を失った男の瞳を見た。 半ば開かれた口が、何か言いたそうに思える。 近づく足音に気付き顔を上げた。 「どうして……」 そう呟く真輝様の表情は私と同じ、そう見える。 何かを掴み取ろうとするかのように歪められた指が、男の疑念を物語っているようだ。 ふと、彼女の気配を感じた。

微かな、消え入りそうな声がした。 そう感じた瞬間、私は走り出していた。 「神崎さんっ!? どこへっ?」 「すぐに戻りますっ」 真輝様の呼び掛けに、私は振り向かなかった。 きっと、取り憑かれていたのだろう。 初めて会ったあの時から、あの黒猫に。 それで構わない――私はそう思っていた。

ぼんやりと、淡い光を放ちながら走る黒猫の後を追い、走り始めたのは覚えている。 だが、どこをどう走って来たのか分からないまま、気付けば私は、あの駐車場に来ていた。 虫の声すら聴こえない異様な静けさが、辺りを支配している。 彼女は直売所の裏手へと、滑るような足並みで向かう。 私はその姿を見失わないよう、ただ、付いてゆくだけだった。

駐車場に隣接する藪の中に、彼女は入ってゆく。 途中にある竹製の柵など、無い物のようにして。 藪は、私の膝よりも少し高いぐらいだろうか。 掻き分けながら五・六メートルほど進んだ所で、彼女が座って、私を待ってくれていた。 「ここですか? 私を連れて来たかったのは」 見上げる彼女にそう問い掛けると、短く一声答え、藪の中に視線を向けた。 携帯ライトの光を当てる。 半ば予想していた光景が照らし出される。 「私に、見つけて貰いたかった――そういう事、なんですね」 予想していたはずなのに、私は認めたくなくて、思わず顔を背けていた。 彼女の、遺体から――

切なく、訴えてくる。 彼女が言いたい事は分かっている。 淡く輝く体を脚に摺り寄せ、何度も、何度も呼び掛けてくる。 今、この目に映る彼女の姿が、実体ではない事を受け入れるのに、もう少し、時間が欲しかった。 「一緒に、埋めて欲しいのですね」 私の言葉に応えるように、彼女は自らの遺体の傍らに座り、一声鳴いた。 その顔が、満足げに微笑んでいるように見えて、私は堪らなく、悲しくなった。 「――――分かりました」 霞のように薄くなってゆく彼女を、出来れば留めて置きたかった。 そんな事は出来ないし、してはならない事だと分かっているから尚更、強く望んだ。 残された、生気を失った彼女の抜け殻を、私は自分の上着で包み、男が死んだ場所へ戻った。

警察署を出る頃にはもう、夜は白み始めていた。 男との関係をしつこく訊ねられたが、どこの誰だかなど、私達には知る由も無い。 犯人のような扱われ方には正直腹が立ったが、目撃者が私達しか居なかった以上、彼らの対応は致し方ないと、我慢するしかないだろう。 何かあれば、また電話連絡が来るそうだが、出来ればこれきりにしてもらいたい、そう思う。 「あー腹減った、なんか食って帰ろうぜぇ、ファミレスでいいからさぁ」 「確かに。さすがの僕も、空腹に耐え切れないよ」 「済みませんが、私は寄る所がありますので、先にお帰りになって頂けますか?」 大きく伸びをしながら前を行く二人にそう声を掛けると、彼らは、きょとんとした顔を私に向け、次いで首を傾げた。 「別に、良いけどさぁ――」 語尾を濁し、良輝様は私と、私が抱えているモノを、交互に見る。 「……我が侭を言って、申し訳ありません」 冷たく、芯を失くしたような彼女の体を両腕で包み、深く頭を下げた。 ――約束を守らねばならない。 私は、何か言いたげにしている二人に少し心苦しさを覚えながら、背を向けた。

朝、こんなに早い時間に、この公園を歩くのは初めてだ。 走り去るタクシーのエンジン音を背後で聞き流し、私はウォーキングコースに向かった。 薄っすらと懸かる朝靄は、しっとりと優しい空気で辺りを満たしてくれている。 「もうすぐ、着きますよ」 温もりも、相槌も返してくれない彼女に、私は語り掛けた。 出来る事ならもう一度、あの声を聞きたいと願って…… 目頭が、熱い。 絶対に叶わないと分かっている願いを持つ事が、こんなに苦しい事だとは――

コースを外れ、人目に付かないちょっとした林の、更に奥の方へと進む。 樹の陰で、常に暗く湿った所がある。 まだ新しく、一目で掘り返した跡が分かる。 そこは、仔猫を埋めた場所。 傍らに彼女の遺体を置き、私は素手で、墓を掘り起こし始めた。 彼女との最初で最後の逢瀬が、まさか埋葬になるとは、思いもしなかった。 年のせいだろうか……意外と緩い自身の涙腺から一筋、流れ落ちるのが分かった。 「なんだよ、水臭ぇなぁ」 「――!」 聞き慣れた声に驚き、私は慌てて涙を拭った。 「一緒に、埋めてやるんだろ?」 そう言って、良輝様は私の前に回り込み、小さなスコップを差し出してくださる。 落ち葉を踏む足音に振り向けば、そこには、真輝様の姿もあった。 「よく、ここが分かりましたね」 「尾行は、僕の得意分野だからね」 微笑み答える彼の手にも、スコップが見えた。 彼女との逢瀬に、水を注された事が少々残念に思えたが同時に、私ごときを気に掛けてくださるお二人の優しさが、有り難くも思える。 私は、良輝様の手からスコップを受け取り、改めて掘り返し始めた。

土に塗れた姿を露にしたダンボールに、私は静かに手を合わせた。 思っていたほど悪臭は無く、草と土の香りがするだけだ。 彼女を包んでいた上着をそっとめくり、その姿を目に焼き付けるように見詰めた。 黒く、艶やかであったろう毛色はくすみ、閉じられた瞳と口元から垂れた舌が、切ない。 二・三度、毛並みを整えるように撫でた後、仔猫の元に彼女を返し、ダンボールの蓋を閉じた。 「これで、ようやく成仏できるのですね……君は」 それが、一番良い事なのだと、私は自身に言い聞かせていた。 「神崎さん」 「なんでしょう」 「昨夜、あの現場で、何か――見たかい?」 「何か、ですか……」 遠慮がちに掛けられた声に、私は暫し、瞼を閉じた。 恐らく真輝様も、私と同じ光景をご覧になったのだろう。 あえて訊ねられたのは、『見た』という確信を得たいからなのかもしれない。 「あの男に襲い掛かる彼女――黒猫の姿と、足元に群がる無数の猫の姿を見ました」 「……僕もだよ」 私の返答に、どこかホッとされたように、頷かれる。 「きっと、あの男にも見えていたでしょうね」 「だろうね」 だからこそ、あのような狂気の沙汰に、陥ったに違いない。 「何だよそれ、初耳だぞ」 土が付いたままのスコップで肩を軽く叩きながら、良輝様が不満げに、話に加わってこられた。 「お前に、電話を掛けさせている間に見たのさ」 「猫を?」 「はい。実態があるようには思えないのに、確かな存在感がありました。それらに絡まれ、動きを封じられてしまったのです」 「――つまり、それって?」 「世間一般的な表現をするなら、幽霊、って事だろうね」 ぽかんと、口を開けたまま私達を見る良輝様に、つい、苦笑が漏れる。 「じゃあ……復讐の為に?」 眉を顰め、ゆっくりと親仔の墓を見やり、良輝様は口を噤まれた。 「多分ね」 墓の傍らにしゃがみ、土を掛けながら真輝様がそう答える。 「猫は、執念深いって言うだろ?」 少しずつ見えなくなってゆくダンボールを悲しげに見詰め、良輝様も一緒に、土を掛けられ始めた。 「それに――」 私もそれに加わる。 「母性愛も強いそうですから」 「…………そっか」 そんな事、なんの慰めにもならない事は分かっている。 ただこれで、彼女の、そして猫達の恨みは晴れたのだと、そう思った。

緩やかに盛り上がった地面を軽く押さえ、三人でもう一度、手を合わせる。 「良し、終わったね」 「あ~、ほんとに腹減ったぁ~」 「そうですね」 「あ、そうそう――」 共に歩き出した所で、真輝様がふと思い付いたように話し始められた。 「神崎さんが行った後、もう一度小屋の中に入ってみたんだけど、隅で虫の息になっている猫を見つけてね。パトカーのサイレンを聞き付けて、様子を見に来たあの獣医さんに預けたんだけど……」 「それで、どうしたんですか?」 「命は取り留めたけど、もう、野良としては生きていけないそうだよ」 「そう、ですか」 命が助かっただけでも、良しとすべきなのかもしれないが、その猫も、あの名も知らぬ男の狂気の犠牲になったのだと思うと、やりきれない想いがする。 「だから、寿命が来るまで病院で飼う事にしたそうだよ?」 「――! そうですか!」 特に関わった訳でも、自分が助けた訳でもない猫だが、良かったと、素直に思える。 彼もそう思っているのだろう。 微笑み、頷きながら私の肩に手を乗せ、少し先を行く良輝様に並んで歩いてゆく。 ほのかに温かくなる心を感じながら、私は彼女と仔猫の眠る場所を、振り返った。

声が聴こえた。 自分には、霊感など無いはずなのに―― だが、どうでもよい事だ。 柔らかい光に包まれ、仔猫と一緒に居る彼女の姿を、その声を、見聞きする事が出来たのだから。 薄らいでゆく光と共に、彼女らは見えなくなってゆく。 最期に、消えてしまうその一瞬前に、もう一度鳴いてくれたような、そんな気がした。

『ありがとう』と、そう言ってくれたのだと、私は勝手に解釈した。 街灯の明かりの元、初めて会った時を思い出す。 動物など、一度も飼った事は無いが、彼女となら、一緒に暮らしても良いと思った。 「神崎ぃー、何やってんだよぉ、早く飯食いに行こうぜぇ」 「はい、ただいま」 少し先で、私を待つお二人に歩み寄る。 「お手数をお掛けしました」 「いいよ、別に」 「そうそう、また、助手を頼むかも、しれないからね」 「…………」 その言葉に、何故か一抹の不安を感じた。

何を食べようかと、楽しそうに笑い合いながら私の前を歩くお二人。 湖の上に煙る朝靄が、射し込む朝日で薄まってゆく。 「君は、妹に良く似ていた……」 心の奥底に仕舞い込んだ捨て切れない願望を、私はあの黒猫に、勝手に重ねていただけかもしれない。 もうすぐ、命日が来る。 そう言えばここ何年か、墓参りなどしていなかった。 久しぶりに、兄妹の話をしよう――色々な、話を――

宵闇異聞録 ~ 母情 ~ (1)

扉から漏れるランタンの明かりが、小屋の天井や壁を、そして立ち尽くす私達を、照らし出していた。 中に散乱しているポリバケツやビニール袋が、その光を鈍く反射している。 地べたに横たわる男を前に、私は自身の無力を、感じていた。

――こうなる前に、どうにか出来たはずだ。 その気になれば…………止めよう、所詮、後悔に過ぎない。 恐らく、そう思いたいだけなのだから。

私達は、何も出来なかったのだ。 止められなかった…… どう足掻こうと、きっとそうさせては、貰えなかった。

「ただいまー、あー、腹減った」 「お帰りなさい、良輝様。お三時はそこに」 遠慮の無い、大きな声で帰ってきた彼の名は、瀬渡 良輝(せわたり よしき)。 桜花学園高等部一年に在籍している。 故あって私、神崎 猛(かんざき たける)が、お世話させて頂いている方だ。 その『故』は、今回の話とは無縁の為、今は割愛させて頂く。

その日も、良輝様はいつものセリフを言いながら、いつものように玄関ドアを雑に開け、勝手に閉まるがままに放置し、靴は脱ぎっ放しでスリッパも履かずに、それが定められたコースであるかのように、自室に行く前にダイニングを覗き、テーブルに用意されたお菓子を摘んでおられた。 そうここまでは、何もかもいつも通りだった。 いつもと違ったのは、良輝様が珍しく『世間話』というものに興味を持たれた事。 今思えば、この時点で既に私は、あの場に居合わせる事を運命付けられていたのかもしれない。

「神崎、この辺って、野良猫が多いのか?」 「は? 野良猫――ですか?」 「いや、帰ってくる途中で四・五人のおばさん集団と擦れ違ったんだけど、その集団が話してたんだよ。餌やり場に、いつも来る猫が来ないとか、居ついているはずの猫の姿が見えないとか、他の町でも、そんな話を聞くとか……神崎、走っている最中に、見た事あるか?」 冷たい麦茶を差し出す私に、良輝様はリビング越しにベランダの窓から見える景色に目を向けた後、そう訊ねて来られた。 現在、私と良輝様が居候させて頂いているこのマンションの眼前には、湖が広がっている。 南北に細長く、さして広くも無い湖だが、湖畔には整備された公園が広がり、ウォーキングコースや貸しボート店、漕艇場も完備されていて、地域住人の憩いの場となっている。 広くは無いと言ったが、それでも周囲約五,五kmはある。ウォーキングコースに至っては、約六km。私は毎晩、そのコースを二周している。 「そうですね。確かにこの辺は多いかもしれません。良く、猫に出くわしますから。餌をやっている方々のお姿はお見かけした事はありませんが、そのような特集を、何かで読んだ記憶はありますよ、良輝様」 「特集?」 「はい」 私はその特集内容を、掻い摘んで話した。

その記事に書かれていたのは、野良猫を保護する為に、団体を立ち上げたカメラマンの話だった。 無造作に捨てられてゆく仔猫や成猫たちを保護し、餌をやり、不妊・虚勢手術までしてやっているという…… その費用は勿論自費。 最近では、その活動が話題となり、団体に寄付をしてくれる人や、賛同してくれる獣医師が格安で手術を請け負ったり、定期的に猫達の診察もしてくれているという。 だが、世の中猫好きの人達だけが居る訳ではない。 猫嫌いの人達にとっては傍迷惑な話で、そんな活動をするから、余計に猫を捨ててゆく人が後を絶たないんだと、反対する人もいる。

「というような、内容だったと思うのですが……」 「へぇー、世の中、奇特な人も居るもんだ」 テーブルの上に置いてあったお菓子をほとんど平らげ、ご自分で話を振っておきながら、そのあまりの無関心ぶりに、私はつい、苦笑してしまっていた。 「まぁ、他人が好きでやってる事に、どうこう言うつもりはねぇけど、でも、他の街の猫の事まで、別に心配しなくてもいいんじゃねぇのかなぁ」 最後のお菓子を口に放り込み、良輝様はそう言って首を傾げておられる。 少し、冷たく感じるが、恐らくそれは、第三者としての普通の感想だろう。 「好きなものに対する意識というのは、得てして、そうゆうものではないですか? 良輝様」 「そうか?」 「他の街なのだし、自分たちだってそこまで手は出せない――そうと分かっていても、やはり、気になるものなのですよ」 「そうゆうもんか?」 「えぇ、そうゆうものだと思います」 納得がいかないような表情を浮かべる良輝様に、私は笑顔でそう答えた。 きっと、ご自分で体験なさらなければ、分かる事ではないだろう。 そうゆう、『心の機微』のようなものは。

「そういや、兄貴は?」 「真輝様は今日、取材でお出かけです。帰りは何時になるか分からないそうですよ」 「ふぅん……じゃあ、今日は二人っきりの食事になるわけか」 「――はい」 半分ほど残った麦茶に向けられた良輝様の視線が、どことなく、寂しげに見えた。 二人きりの食事など、慣れているはずなのに。 これまでの十年間、そうして過ごして来たのだから…… 『三人』で暮らし始めて、まだ数ヶ月しか経っていない。 それなのに、たった『一人』増えただけなのに、人の感覚はこうも変わるものなのか。 私は、良輝様を見てそう思っていた。

その日の夜も、いつものように、走り始めた。 明るい間でも静かな場所だが、昼の喧騒から解き放たれ、優しい闇に包まれた公園には、また違った静けさが訪れている。 水辺特有の、湿気の篭った纏わり付くような空気。 風が運んでくる緑の香りや水の匂い。 月が昇り始めてから活動を始める、生き物達の気配。 それらが感じられるこの時間帯の公園を走るのが、堪らなく心地良い。 私は、昼間の良輝様の話など、すっかり忘れてしまっていた。

「――?」 二周目も、半分ほど走り終えた頃だった。 西岸の、北寄りにある小さな公園を通り過ぎた所で、猫の鳴き声がしたような気がして、私はジョギングの足を止めた。 コースから右に外れ、東屋や駐車場へと延びる細い道が見える。 確かその先は、野菜の直売所やミニ鉄道など、昼間、人が集まる施設が設けられている場所だったはずだ。 その方角から、聴こえたような気がした。

引き寄せられるように歩を進めた。 また、鳴き声がする。 胸が締め付けられるような、悲しげな鳴き声。 無意識に、足の運びが速くなる。 駐車場の明かりが見えてくる。

鳴き声は、一定の間隔を置いて同じ調子で聴こえていた。 今にして思えば、異様だと思える聴こえ方――だが、その時の私は、ただ只管に声の主を求めるだけだった。 竹垣で囲われている駐車場に足を踏み入れ、私は辺りを見回し、耳を澄ました。 声は、聴こえて来ない。 公道側の入り口付近には、簡素な直売所が設置されている。 私は迷わずそこに向かった。

「君ですか? 鳴いていたのは」 薄暗い街灯の下、辛うじて『店』と呼べる建物の隣に、階段状の陳列棚があった。 その棚の一番下を、一匹の黒猫が覗き込んでいる。 声を掛けた途端、猫は警戒心を露にして、私から少し離れてゆく。 だが、一定の距離を保ち、それ以上離れようとはしない。 行ったり来たりを繰り返しながらしきりに棚の下に視線を送り、時に『何か』を確かめるように動きを止め耳を欹て、そして、訴え掛けるような瞳で私を見る……

切なくなる声で、鳴いて。 「そこに、何かあるのですか?」 私は、棚の下を覗き込もうと膝を付き、『見る』許可を得るようなつもりで、黒猫に視線を送った。 猫は、私と目が合っても逃げようとはしなかった。 黙って、その場に座り込んだだけで…… 「良いのですね?」 そう訊ねた後で、思わず苦笑した。 人の言葉を、その行動の意味を、猫が解する訳など無いのに…… 意味が有るようで無い自身の言動を恥じるように、私は棚の下を覗き込んだ。 街灯の明かりのお陰で、何か、箱のような物が、そこにあるのが分かる。 恐らく、ダンボールだろう。 (もしかしたら……仔猫、か?) 猫+ダンボール=仔猫というのは、いかにも安直な推理だが間違っているとは思えない。 先程からの黒猫の行動も、その推理が正しい事を証明している。 箱は、地面と棚の隙間に、無理矢理押し込まれている。 側面は少し歪み、良く見れば、所々角が擦り切れている。 「――動かない、ですね」 これ以上箱を傷めるのは心苦しく、鉄製の棚を持ち上げ位置をずらそうとしたが、少々無理があった。 重い訳ではない。 盗難防止策が棚に施されていた、それだけの事だ。 「大丈夫、出してあげます」 私は、大人しく成り行きを見守っている黒猫に、そう、声を掛けた。 言葉など、解する訳が無いと思っているのに。 私はもう一度、膝を付いた。 ダンボール箱は、本当に無理矢理に押し込まれていた。 中に居る仔猫を驚かしたくは無かったが、静かに出す事は難しい。 やはり、無理に出すしかなさそうだ。 親仔で捨てられた上に、心無い誰かの悪戯で、ここに押し込められてしまったのだろうか…… 私はそんな事を想いながら、力一杯、箱を引き摺り出した。

「――――」 何も、言えなかった。 箱の中に、予想していた光景は見られなかった。 何故、『異変』に気付けなかったのか……ほんの少し、考えを巡らせれば分かりそうな事なのに。 あれだけ母猫が鳴き、人の声や気配、更には箱を動かす振動まで伝わっているのに、聴こえてくるはずの『声』が、全く、聴こえなかったのだから――仔猫の、鳴き声が…… 愛らしい命の姿の代わりに鼻を衝いてきたのは、噎せ返るような、血の匂い。 ――どうして、私は目を背けてしまえないのだろうか。 見たくない事実から逃げてしまえるほどには弱くない自身が、時折、恨めしく思えてならない。 視界の端に黒猫の姿を認め、私は目を向けた。 月夜に相応しい音の無い歩みで、ゆっくりと近づいてくる。

そう気付いた時、私は思わず手を翳していた。 見せたくないし、見せてはいけないような、そんな気がしたからだ。 だが黒猫は――彼女は私の瞳をじっと見詰め、小さく鳴いてから、鼻先をそっと箱に近付けて来た。 「君は……分かっているんですね」 私には霊感など無い。 だから、猫の言葉など分からない。 だが、この時は何故か、彼女の『心』が分かる気がした。 翳した手を退けた。 街灯の明かりを浴びる箱の中にあるのは、ただの肉片と化した、元は恐らく仔猫であったモノ。 原形を留めていない肉塊の中に、四足の先や尻尾・耳・骨の欠片が見え隠れしている…… ……一体仔猫は何匹いたのか、それすらも分からないほど、血と肉と毛皮が、混ざり合ってしまっていた。 千切れた皮や血溜まりに残る靴底の跡が、『誰か』が容赦無く、小さな命を言葉通り、『踏み躙った』事を物語っている。 きっと、計り知れないほどの憎しみを込めて……そう感じさせる、行為の残骸だった。 彼女は箱の縁に足を掛け、中を見渡し、鼻先を近付け、匂いを嗅いでいた。 ソレが、自分の仔であると理解した上で、慈しみ、悲しみ、惜しんでいるかのように、私には見えた。

胸が苦しくなる、喉の詰まる鳴き声。 私は、そんな鳴き声を聞き続けていられるほど、強くは無い。 「……もし、良ければ、この仔達の供養を、私に任せていただけますか?」 ダンボールを持つ私の下に歩み寄り、短く何度も鳴きながら見上げてくる彼女に、微笑み掛けながらそう言った。 私の言葉を、彼女が理解してくれるかどうかなど、考えていなかった。 ただ、『心』は感じてもらえる。 そう思っていた。 歩き出した私の後ろを、黙って付いてくる彼女を見て……

夜のウォーキングコースを、男が一人、歩いている。 少し大きめのリュックを肩に掛け、口元に薄い笑みを湛えながら、歩いてゆく。 年の頃は、二十代後半ぐらいだろうか。 中肉中背で、外見的にこれといった特徴の無い男だ。 だが、良く見れば、彼の履くデニムの裾やスニーカーに、あってはならない染みが付いているのに気が付くだろう。 同時に、してはならない匂いにも、気が付くかもしれない。 ――血の、匂いに。

男は、ほんの数十分前に出会った幸運を思い返し、噛み締め、そして酔い痴れていた。 アスファルトを踏む靴底に残るいつもとは違う感触、そして、耳朶に纏わり付く小さな断末魔を、忘れまいとしていた。 男は良く、この湖の公園に来ていた。 時に車で、時に公共交通手段で。 車で来た時は必ず同じ駐車場を利用し、そして、同じ場所に停めていた。 だが、今日に限って、いつもと同じという訳には行かなかった。 何処かのガキが数人、原付で乗り付け、街灯の下に溜まっていた。 男はそれを嫌い、いつもは利用しない駐車場に回り、そして……

仔猫の鳴き声を聞き付けた。 ……まるで、運命のような廻り合わせだと、男は思った。 重なった偶然が、予期しない幸運を齎してくれたと、そう思っていた。 愉悦に歪む顔を伏せながら歩き続け、漏れそうになる声を押さえ付けるように、規則的に繰り出される自身の足先を見詰めていた。 時折踏み付ける小枝に、仔猫の骨の感触を重ね、その乾いた音を愉しんでいる。 小さな身体から食み出し、染み出す肉や内臓、体液―― そして、何よりも恍惚とさせてくれる、あの、馨しい血の香りを思い返し、出来る事ならもう一度味わいたいと――男はそう願っていた。 仔猫だからこそ感じられるあの一時を、今度はもっとゆっくりと時間を掛けて……と。

いつの間にか、いつも利用している駐車場の出入り口まで来ていた。 もう、あのガキ共の姿は見えなかった。 今日、車を停めた駐車場はまだ先だ。 もう少し歩かなくてはいけない事に、男は舌打ちをする。 イラ付きながら通り過ぎようとする男の足が、不意に止まった。 駐車場の奥、公道側の出入り口付近に見える影の集まりを、見詰めている。 街灯の下に集まる十数匹の猫の姿が確認出来る。 猫達のすぐ傍には、人影も見える。 途端に、男の口から歯軋りが聞こえた。 冷たく、刺すような光が、瞳に宿っている。 男の脳裏に、昼間の出来事が蘇ってきていた。

ちょっとした失敗を挙げ連ね、ネチネチと人前で嫌みったらしく指摘する上司。 『気にするなよ』と、気安く声を掛けてきて、偉そうに慰めてくる同僚。 自分達の無能さを棚に上げ、憂さ晴らしで人を責めたり、優越感に浸る為にわざとらしい優しさで慰めてくる。 男は、自分が勤める会社の連中、全員が全員、そうだと思っていた。 上辺を取り繕い、人の良さそうな笑みを浮かべ、怒られれば素直に謝り、優しくされれば感謝し、有り難がって見せる…… 男は、それらの行為を繰り返しながら、心の内で蔑んでいた。 誰よりも、自分の方が有能なのだと、だからこそ、無能な連中が何を言おうと、何をしようと、許してやっているんだと。

男の頭の中で、猫と同僚達が重なってゆく。 猫の傍らにしゃがみ込み、顔を綻ばせている人を見て、思い出したくも無い声と光景が思い返され、嫌悪に顔を歪ませている。 【猫の方が……】 背筋を這い上がる悪寒に耐えるように、噛み締める奥歯に力を込める。 猫など、何の役にも立たない、生きている価値など無い動物――男はそう思っていた。 だから捨てられ、野良として生きてゆくしかないのだと。 視線で殺せるものなら殺したい……男はそう願いながら、猫を睨み付けている。 やがて、唾を吐き捨て、再び歩き出した。 ああゆう連中が居るから、猫がのさばり、至る所に棲み付くんだと………… そう、思いながら。

「おはよ神崎。昨夜の猫、あの後どうした?」 朝、起きてくるなり、良輝様はキッチンに顔を出し、私にそう訊ねられた。 「おはようございます、良輝様。あの黒猫ですか? 確か、仔猫を埋めるまでは、すぐ傍にいたのですが……手を合わせている内に、何処かに行ってしまったようなのです」 「ふーん、そうかぁ……」 良輝様は、少し残念そうなご様子で、そのまま洗面所へ向かわれた。 昨夜、私がダンボールを持って一旦マンションに戻って来た時は、気にされているようには思えなかったのだが。 やはり、顔や言葉に出さないだけで、根は優しい方なのだと、思う。 ついつい、幼かった頃の良輝様の思い出に浸ってしまいそうになってしまい、私は頭を軽く振って気を取り直し、朝食の支度を進めた。 「おはよう、猫がどうかしたのかい?」 「おはようございます、真輝様」 良輝様と入れ替わるようにキッチンに入って来られたのは、石動 真輝(いするぎ まさき)様。 良輝様が『兄貴』慕われている方で、このマンションの持ち主でもある。 仕事は、フリーのルポライターだそうだが、本人曰く、『万屋みたいなもの』なのだそうだ。 確かに、取材とは名ばかりの、実態の分からない仕事が多いように見受けられる。 そのせいかどうかは分からないが、人脈が異様に広く、色んな職業の方々と通じておられるようだ。 一体どのようにして知り合いになられたのか、私はいつも不思議に思っている。 とりあえず、テーブルに着く彼の為に朝食を並べながら、昨夜の出来事を掻い摘んで話した。

「へぇ、わざわざ埋めてあげたのかい? その仔猫。意外と優しい所があるんだねぇ」 「意外ってのは余計だぜ、兄貴」 「そうかい? それは失礼」 関心があるのか無いのか、全く分からない口調で、彼は朝食を口に運んでゆく。 その隣で、良輝様はすでに同じメニューの朝食を食べ終えられ、食後のお茶を啜っていた。 「ごちそうさま、じゃ、行ってくる」 「はい、いってらっしゃいませ」 「あぁ、気をつけてな」 玄関先で良輝様を見送り、再びキッチンに戻ってきた時には、真輝様も食後のお茶を啜っておられた。 つい、溜め息が出る。 食器を片付けながらも、頭の中はあの黒猫と、仔猫の事で埋め尽くされている。 何処にでも居る、野良の黒猫。 だが何故か、あの鳴き声と瞳が、忘れられなかった。 ――いや、『何故』ではないかもしれないが…… 「――気になるのかい?」 「えっ?」 「その黒猫の事」 「…………」 上の空で片づけをしている私に気付いたのだろう。 彼は、空いている手で頬杖をつきながら、そう訊ねてきた。 「えぇ、まぁ……」 私は手を休め、彼の向かいの席に座る。 「黒猫の事もそうですが、あの仔猫の殺され様も、気になるのです」 「確か、踏み潰されていた――んだったよね?」 頷きながら、差し出された湯飲みにお茶を注ぎ、自分の湯飲みにも注いだ。 「まるで、鬱憤を晴らすかのような、怒りや憎しみといった、負の感情の全てをぶつけたような、そんな感じがしたのです」 思い返される、街灯に照らされた仔猫の死骸。 あの噎せ返る血の匂いが、もう一度鼻を衝いて、頭の中を抜けてゆく。 あのような行為を、どのような精神状態でやったのか、私には理解出来ない。 『死骸』と呼べるような体を成さないほどに、踏み潰すなど…… 私は思わず、湯飲みを握り締めていた。 「そう……何か、嫌な事の始まりじゃなきゃ、いいけどね」 真輝様のその一言に、私はハッとなった。 私も、同じように思っていたからだ。 「今、僕が取材しているのは、その、猫の事でね。何かの暗示のような、そんな気もするんだよ。まぁ、偶然だとは思うけどね」 「そう、ですか……」 確かに、彼の言う通り、偶然の一致に過ぎないのだろう。 だが、それでは済ませられない懸念が、どうしても胸の内に残っている。 「じゃ、僕もまだ、取材があるから」 「あ、はい。いってらっしゃいませ」 どこか、慰めのような微笑を投げかけ、真輝様は席を立たれた。 私は、言い知れない淀みのような思いを抱え、暫くテーブルから立ち上がれずにいた。

その夜も、私はウォーキングコースへ向かった。 コースを二周、滞りなく走り終えたが、そのまま帰る気にはなれなかった。 黒猫の事が、脳裏から離れない。 もう一度会いたいとさえ、思っている。 そして、本当に出来る事なら、彼女と一緒に暮らしたいと、願っている。 居候の身であると言うのに。 「私としたことが、何を考えているのか……」 そう呟き、私は自身に苦笑した。 もうすぐ、三十代後半になろうというのに、猫に恋をするなど――バカらしいにもほどがある。 だが、気になる事に変わりは無い。 その原因も、なんとなくだが思い当たる。 私は、あの駐車場に向けて、歩き始めた。

昨日となんら変わりの無い、駐車場。 あの、直売店の陳列棚も、昨夜のままだ。 物悲しい風景のように思えてしまうのは、薄暗い街灯と人気の無さ、それと昨夜の記憶のせいだろう。 こうして現場に来ると、より鮮明に、あの仔猫の様が蘇る。 黒猫の、悲しげな鳴き声が、すぐ傍で聞こえてくるような気さえする。 「……困りましたね」 私はただ、仔猫を埋めてあげただけに過ぎないというのに…… 日本全国、一体どれだけの猫が捨てられ、そして死んでいる事か。 私が出会ったのは、その中の、一例でしかない。 珍しい事では、ない。 そうと分かっていても、胸に焼き付いた彼女の姿は私を困惑させ、溜め息を吐かせる。 彼女は、私が穴を掘っている間ずっと、潰された我が仔の毛を舐めてやり、匂いを嗅ぎ、添い寝をしてやっていた。 目を細め、行うその仕草は母性に満ち溢れ、私が土を被せている間も、傍らに座り、見守り続けていた……出来る事なら、あの声、あの瞳、あの雰囲気を、ずっと身近で感じていたかったのに。 それなのに、いつの間に居なくなってしまったのだろうか―― 恐らく、私が手を合わせている間に、なのだろうが、その気配を感じる事は出来なかった。 いくら『猫』でも、動き出す気配ぐらい、分かりそうなものなのだが……

「ここが、その現場かい?」 「――っ!?」 不意に声を掛けられ、私は不覚にも驚き、飛び退っていた。 「ま、真輝様」 いくら、黒猫の事で頭が一杯になっていたとは言え、気配も感じさせずにこの私に近付く事が出来るなど――有り得ない。 まるで、『猫』のような身のこなし、本当に、ただの記者として活動しているだけなのか、全く以って疑わしい方だ。 「そうですが――どうして、此処へ?」 彼が味方だと分かっていなかったら、思い切り警戒している所だが、私はとりあえず質問に答え、歩み寄ってくる彼に場を譲りながら、訊ね返していた。 「昼間、猫のことを取材しているって、言わなかったかい?」 辺りを見回し、棚の下を覗き込みながら、彼はそう答えた。 「こうゆう、整備された広い公園に捨てられてゆく猫たちを保護して、餌をやったり不妊や虚勢手術を施したりしている団体が各地にあってね。僕はこの辺りで主に活動している団体や、そうゆう団体を手助けしている獣医師の取材を任されているのさ」 「そ、そうですか」 「それに、今朝の話しも気になってね」 話しながら歩き出す彼に合わせるかのように、月が顔を出した。 街灯のくすんだ明かりと混ざり合い、月光が駐車場を照らし出してゆく。 「動物虐待は、立派な犯罪なんだけどねぇ……」 そう言って急にしゃがみ込んだ後、彼は私に、手招きをしてくる。 「――これ、見えるかい?」 不審に思いながら近付く私に、そう言って指を指す真輝様。 棚から、さほど離れていない地面に、小さな丸い点が浮き上がって見える。 昨夜は、気が付かなかった。 良く見れば、あちらこちらに散らばっている、黒い、点。 「血……でしょうか」 「だろうね」 人の、業の深さを思わずにはいられない。 ダンボールの中、無抵抗な仔猫を、血が飛び散るほどの力で、踏み付ける。 想像しただけで、胃が焼けるように痛く、重くなってくる。 黒い点が、仔猫の――母猫の涙のように思え、自身の飼い猫でもないのに、殺したいほどの憎しみを、見た事も無い動物虐待の犯人に、覚えてしまう。 「私には、とても理解できません……」 「……僕もだよ」 私は月を見上げ、湧き上がる怒りを抑えると同時に、仔猫の冥福を祈っていた。

月がまた、雲に隠れた。 無意識に確認した時計の針は、十時を回ろうとしている。 『そろそろ帰りましょうか』と、彼に声を掛けようと思った時だった。 「やっぱり、来ていなかったわね、あの猫……」 「そうねぇ、どうしたのかしらねぇ、もう、おじいちゃん猫だから、どっかに行く元気なんて無いと思うんだけどねぇ」 「ほ、他にも、来なくなった猫、いますよね?」 「そうね、誰かに拾われてるんだったらいいんだけど」 公園の静けさにそぐわない話し声と共に、湖の方から現れたのは、中年の、女性の集団だった。 彼女達は私達に気付くと、警戒心の篭った目を向けながら、一応軽く会釈をしてくれる。 「もしかしたら……」 「ん?」 ふと、思い出した。 「あの方たちが、真輝様が取材なさろうとしている団体の方々なのではないでしょうか」 「え?」 首を傾げ、しゃがんだまま訊ねてくる彼に、私は体を向け直した。 「昨日良輝様が、帰宅途中に猫のことを気にしている女性の集団と擦れ違ったと、仰っていました。恐らく、あの方たちの事でしょう。話していた内容が、良輝様の仰っていた内容と合いますし、そうゆう団体が、同じ地域にそう何箇所もあるとは思えませんし」 「確かに」 真輝様はそう言いながら立ち上がり、 「声を掛けてみようか、神崎さん」 と、私を誘うように、微笑み掛けて来た。 「は? ですが、私は……」 彼女達に何の用も無い。 個人的にも仕事的にも。 「ま、これも付き合いだと思って」 彼は、楽しげな笑みを浮かべながら、私の意向など無視し、駐車場を突っ切ろうとしている集団に向かって歩き出した。 これも、乗り掛かった船と言うのだろうか? 仕方なく、私も彼の後を付いて歩き出した。

「すみません、ちょっとお話を聞かせて頂きたいのですが……」 「な、何でしょう」 夜、人気の無い駐車場で、しかも、『早い』とは言えない時間帯という不気味なシチュエーションの中で声を掛けられたせいか、集団で居るにも拘らず、彼女達は後退り、警戒心剥き出しの視線を浴びせてくる。 「あぁ、驚かせるつもりは無かったんです。実は僕、こうゆう者で……」 真輝様の柔和な笑みと、耳に心地良いテノールで、何度も頭を下げて謝る姿に多少安心したのか、彼女達の警戒が、少し解けたように思える。 そっと差し出された名刺を、集団のリーダーらしき女性が、恐る恐るといった感じで受け取ってくれた。 年の頃は、四十代後半、と言った所だろうか。 他の女性達も、あまり大差はないように見受けられる。 彼女達は、街灯の明かりに照らされた名刺と私達を交互に見比べては、ひそひそと声を交わしていた。 「何を、お聞きになりたいんですか?」 リーダーらしき女性が、そう訊ねてくる。 少し解けたとは言え、まだまだ、警戒されているのが分かる。 「今度、ペットの専門雑誌で、野良猫の特集記事を組む事になったんですが、この公園で、野良猫の保護活動をしている団体がいると聞きまして――」 「……確かに、そうゆう活動をしていますけど?」 少し、警戒心が増したようだ。 『それが?』という言葉が、語尾に付きそうな表情をしている。 基本、関係無いのだが、真輝様と一緒に居るせいか、私も睨み付けられた。 ――保護活動自体、悪い事ではないはずだが、良い目を見ていないようだ。 彼女達に対する風当たりは、こちらが思っているよりも強いのかもしれない。 昨日、良輝様に話したカメラマンの事を思い出す。 「そうですか! 良かった……いえ、そうじゃないかと思って、不躾とは思いつつ、声を掛けさせて頂いたのです。どうでしょう? 取材を、させて頂けないでしょうか?」 だが、真輝様はこのような反応に慣れているのだろう。 柔和な雰囲気は、決して崩さない。 「取材……ですか?」 また、彼女達の表情が険しくなった。 よほど、嫌な目に遭っていると見える。 「そちらの事情は、それなりに把握しているつもりです。どちらかを支持するような、偏った記事にはしません。初対面の人間を、今すぐ信用しろと言うのは無理があるかもしれませんが、是非、お話を伺いたいのです。謝礼も、多少ですが、お出し出来ると思いますし」 「――――」 互いに顔を見合わせ、戸惑いながら頷き合っている。 「お話できることだけで、良いんでしたら……」 「はい、ありがとうございます」 真輝様の真摯な態度が功を奏したのか、それとも、『謝礼』という言葉が効いたのだろうか、明らかの彼女達の空気が変わった。 なんとなくだが、残念な気がしていた。

「先ほど、猫が居なくなったとか――そのような話をされていたのを、耳にしたんですが」 普段から、場の空気を和らげる雰囲気を持つ真輝様だが、その特性は、こうゆう場面でこそ、遺憾無く発揮されるものなのだろう。 時間を追う毎に、彼女達の警戒心が無くなってゆくのが分かる。 「えぇ、野良猫の保護活動を始めて数年経ちますけど、ここ何週間かの間に、居なくなっている猫が何匹も居るんです」 俯きがちに話し始めたリーダーに触発されたのか、それまで、彼女の後ろに控えていた人達も口を開いてくる。 「最初はね、拾ってもらったのかなって、思ってたんですよ? これまでにも、事故や病気で死んじゃった猫だっているし、猫にだって、帰巣本能ってあるらしいですからね、元のお家に帰っちゃったのかなって……」 「でも、それにしたって、居なくなり過ぎなんです。もう、年寄りで、遠くまで行けない猫まで、居なくなってるんです、ねぇ?」 後ろを振り返り、仲間に同意を求めるリーダー。 彼女の言葉に、他の二人も力強く頷いている。 「か、考えたくは無いですけど、も、もしかしたら、猫嫌いの人が――わ、私たちの活動を、快く、思っていない人も、居ますから……」 一番若く見えるご婦人が、そう言って、口を噤んだ。 当然の懸念だろう。 世の中、猫好きの人だけが居る訳ではない。 真輝様が先ほど口にされていた『どちらも』の片方は、その、猫嫌いの人達の事だろう。 世の人達のほとんどが、良輝様のように『人が好きでやっている事に、口を出すつもりは無い』という態度であれば、このような確執など、起きはしないと思うのだが…… 人の心というのは、好き嫌いで割り切れるほど単純ではない、という事か。 「他の街で、同じ活動をしている団体の人からも、同じような話を聞くんです。だから、とても心配で……」 リーダー格の女性は、他の二人と顔を見合わせ、俯いてしまった。 「今日はね、そうゆう、猫に酷いことをする人が居ないかね、出来る人で見回ろうって事になって、それでね、餌やりの後、少し歩いて回ってみたんですけどね」 俯いてしまったリーダーの背中を撫でながら、少し小太りの婦人が悲しそうに、笑みを浮かべた。 命が、脅かされているかもしれない――自分達の与り知れない所で。 そんな不安と、見回りをした所でどうする事も出来ないというジレンマに、彼女達は胸を痛めているのだろう。 私の脳裏にまた、仔猫達の映像が浮かんでくる。 彼女等の心の機微に、感染したかのように。

そんな、自身の想像に、胸が悪くなってくる。 「僕も、そうゆう人が居ないか見ておきますよ。取材しながらですけど」 「あ、ありがとうございます」 張り詰めた悲しみに包まれていた三人の空気が、真輝様のその一言と笑顔で、一瞬にして変わった。 彼の言葉は、積極的な厚意とは言えない。 だが、彼女達の活動を、是認したものではある。 本当の第三者から認めてもらえると言うのは、時として、それだけで、救われるものなのかもしれない。 「出来れば、皆さんの普段の活動や、協力してくださっている方のお話なども伺いたいのですが、そのような方はいらっしゃいますか?」 「あ、不妊や虚勢手術を、請け負ってくださっている獣医さんがいますけど」 「そうですか! その獣医さんとも是非お会いしたいので、連絡を取っていただけますか?」 「はい、構いませんけど」 「ありがとうございます。では、そちらの都合の良い日で結構ですので、決まり次第、先ほどお渡しした名刺に載っている番号にご連絡ください」 「分かりました」 快諾してくれたリーダー以下二名を、その姿が見えなくなるまで見送り、真輝様は月を見上げた。 「前に……」 「ん?」 前触れも無く話し始めた私を一瞥し、また、月に目を向ける。 「野良猫の保護活動を始めたカメラマンの特集記事を、何かで見た記憶があります。内容は、団体を立ち上げた切欠やその活動内容などだったと思いますが、真輝様も、そのような記事を書かれるのですか?」 「――最初は、そのつもりだったんだけれどね」 薄雲を透かして見える月影に視線を向けたまま、 「ちょっと、趣向を変えなくちゃいけなくなりそうだよ」 彼はそう言った。 私の、見間違いかもしれないが、その時の彼の横顔には、薄っすらと笑みが浮かんでいたような、そんな気がしていた。

「それじゃ、僕はまだ取材があるから」 「あ、はい。お気を付けて」 足早に、駐車場を出る真輝様の後姿を見送りながら、私は何故か、胸に手を当てていた。 これが、『胸騒ぎ』というものなのだろうか。 落ち着きの無い、『ざわめき』のような感覚…… 「考え過ぎですね」 そのまま、深く息を吸い込み思い切り吐き出した。 曖昧な想いに囚われるのは好きではない。 そのほとんどが、杞憂に終わる事が多いからだ。 結構な刻を過ごしてしまった。いつもよりも大分遅い。 良輝様が、心配なさっているかも、しれない。 単に、あの黒猫の所在を、確かめたかっただけだったのだが。 私は、帰る前にもう一度、昨夜黒猫の居た棚に目を向けた……

息を呑む…… 街灯が、瞬きを繰り返している。 ちらつく明かりの下、棚の脇に、あの黒猫が座っている―― 気のせいだろうか……漆黒の毛並みが、淡く白い光を帯びているように見える。 あれだけ、『会える』事を渇望していたのに、いざとなると、掛ける言葉すら出て来ない。 目を逸らす事も、歩み寄る事も出来ず、私は暫くの間、彼女の瞳に心奪われていた。 『誰か』を思い起こさせる瞳に。

湖の東側には、まだ手の付けられていない雑木林があった。 管理のされていない林は藪が生い茂り、蔓性の植物が絡み合い、昼間でさえ薄暗く感じさせる。 起伏の激しい場所で、道路から僅か数メートル離れただけで、見上げるような斜面が眼前に広がる。 斜面を登ったその先にも樹木が茂り、さらにその向こうには、大きな建物の塀が覆い被さるように広がっている。 夜、傍らの建造物から明かりが漏れてくる事はない、高過ぎる塀によって、遮光されてしまっている。 公道を照らす街灯の光も、深部までは届かない。 時折射し込むのは、ヘッドライトの強過ぎる光。 それとて、一瞬の事でしかない。 天上から、汎く降り注がれる月光も、物の形が辛うじて分かる程度にしか、恩恵を齎さない。 そんな闇の中を、男が一人歩いている。 小さなライトで足元だけを照らしながら、迷う様子も無く林の中を進んでゆく。 やがて、男の進む先に、蔦の纏わり付いたプレハブ小屋が現れた。 小さな窓が一つと小さな扉。 その扉の脇に、看板が掛けてあるのが見える。 木製の看板には何か書いてあったようだが、汚れてしまっていて判読不可能だ。 誰かの、あるいはどこかの会社の所有物なのだろうが、男は躊躇する事無く鍵を開け、中へと入ってゆく。 中は、漆黒の闇だった。 開かれた扉から射し込んでいるはずの月明かりも、役には立っていない。 男はその闇に慣れているのか、戸惑う事無く扉を閉め、鍵も掛けると、持って来たリュックに手を入れ、ランタンを取り出した。 軽く高いスイッチ音と共に、小屋の中が照らし出される。 一つだけしかない窓は内側からベニヤで塞がれ、壁に押し付けられるように、丸型で、蓋付きのポリバケツが何個も、きれいに並べられていた。 天井には、蜘蛛の巣に包まれた蛍光灯がぶら下がり、扉のすぐ横には、事務机が一台置かれている。 男は、その机にランタンを置くと、もう一度、リュックの中に手を入れた。 取り出したのは、厚手の、透明なビニール袋。 大きさは、一般的な家庭用のゴミ袋と変わらない。 そして、再びリュックの中に手を入れた時、男の顔は愉悦に歪んでいた。 ゆっくりと腕を引き抜き、己の手の平が掴んでいるモノを眺め、割れ物でも扱うかのように静かに、そっと、ビニール袋の中に入れ直した。 ソレは、猫だった。 どこにでも居る、茶色のトラ猫。 他の猫と違う所があるとすればそれは――――身動きが取れぬよう四足を縛られ、鳴き声を出せぬよう、口にガムテープが巻かれている事、ぐらいだろうか。 だが、微かに、呻くような鳴き声は聞こえてくる。 忙しなく動く猫の瞳を見ながら、男は自身の足も、袋の中に入れた。 猫の後ろ足、人で言えば大腿骨に当たるであろう部分に、男はゆっくりと踵を乗せてゆく。 徐々に圧迫される痛みに、猫の鳴き声がテープの隙間から、大きく漏れてくる。 僅かな抵抗を靴底で感じながら、男は一気に、体重を乗せた。 猫の喉元に、口から発する事の出来ない悲鳴が溜まる。 全身を緊張させ、痛みを紛らわせるかのように、小刻みに足を震わせている。 その震えを感じながら、男は思い返していた。 苛立たせる事しか出来ない、者達の事を。

―― 毎日毎日、ほんの些細な事で、まるで鬼の首でも獲ったかのように怒鳴り付けてくる上司 ―― ―― 今日は、ただの変換ミスだった。しかも、たった一箇所 ―― ―― その上、大事な書類の上にお茶を溢された。溢しておいてあの女、笑いながら謝りやがった ――

一つ思い返すと、次から次へと、すでに過ぎ去った事までも、脳裏に蘇ってくる。 「ふざけやがって……あの、クソ女っ。クソ上司っ。クソ野郎っ!」 男は感情のまま、猫を踏み付けていった。 四足を砕き、腰を砕き、腹を潰し、そして、肋骨を背骨を頭蓋骨を、砕いてゆく。 内圧を受けた眼球は飛び出し、耳や口、鼻、肛門から、血が溢れ出している。 砕かれた骨が、血肉に染まりながら毛皮を裂き、飛び出してくる様に歓喜し、圧迫され飛び散る血の馨りを、男は愉んでいた。 痛みに対する猫の反応など、もうどうでも良かった。 人に向ける事の出来ない苛立ちと怒り、ストレスを、発散させる事さえ出来れば、それで良かったのだ。 「この俺がいるからぁ、部署の成績がぁ、上がってぇ、いるんだろうがぁっ! あぁっ?!」 骨の感触が残っている部分を捜し、見つけては、肉や皮の擦れる音、骨が砕け終わる最後の音までも、聞き漏らさぬよう、言葉尻と共に、丁寧に踵を捻ってゆく。 最早、『猫』と呼べる体を成していなかった。 袋の中に溜まっているのは、まるで腐肉。 血も骨も内臓も、体液も毛も皮も、全てが混ざり合い変色し、黒ずんでゆく。 男は、己の足をその中に埋めたまま、息を荒げ、焦点の定まらない目で、踏み損ねた緩く蠢く猫の眼球を、見詰めていた。

男の耳朶に蘇ってきたのは、今日、帰り際に食事に誘った、女の声。 入社当初から目を付けていた女――その女の大きな目と、重なった。 「チッ……阿婆擦れのクセにっ」 男は歯を軋ませ、眼球を踏み潰した。 奇妙な柔らかさと反発を、女の雰囲気と重ねながら、男は何度も、何度も踏み込んでいた。 女に断わられた時、男は卑屈な想いを笑顔で隠し、訊ねていた。 『付き合っている奴って、誰』と。 はにかみ、躊躇しながら答える女の口から出た名前は、男にとって、取るに足りない同僚の名だった。 要領の悪い、仕事の能率も悪い、お人好しだけが取り得のような同僚。 明らかに、自分よりも劣る人間に負けたという事実が、男には耐えられなかった。 「見る目のぉ、無いぃ、女のくせにぃ……仕事もぉ、出来ないぃっ、外見もぉっ、悪いぃっ、男のぉっ、くせにぃっっ!!」 ビニール袋の中に溜まっている、元、猫だった肉塊に、苛付かせる元凶達の顔が映って見える。 その幻影の一つ一つを男が踏み付ける度に、嫌な音が小屋の中を満たしてゆく。 誘いを断った女の顔が浮かび上がる。 踏み付けても踏み付けても、それは歪みながら何度も蘇り、様相を変えてゆく。 男には、それが母親の顔に見えてくる……… 目鼻立ちも年齢も違う、母の、顔に―― 男は、足を止めた。 【猫の方が……】 虫唾の走る声が、頭の中にこだましている。 「クソ……女がぁっ……!」 袋の端を持つ男の手が、小刻みに震えている。

細かい事をネチネチと、人前で言ってくる無能な上司。 仕事も出来ないくせに、同列扱いしてくる同僚。 見る目の無い女と、お人好しなだけのバカ男。 子供の面倒も見ないで、猫ばかり可愛がっていた女。

男は、足を高く上げ、体重を乗せ憎しみを乗せ、尽きる事を知らない苛立ちを乗せ、肉片が飛び散るのも構わず、振り下ろしていた。 今、男の頭の中は、白い部屋で占領されていた。 壁も、窓に掛かるカーテンも、クローゼットもテーブルもベッドも…… 何もかもが白いイメージで満たされている部屋。 その中に、男の母が居た。 焦点の定まらない瞳をいつも窓の外に向け、猫のぬいぐるみを抱え、微笑んでいる。 真白い部屋の中で唯一、色を感じさせる黒猫のぬいぐるみを――

溶け掛けたアイスのような粘度を含んだ血が、男の頬に飛び付く。 男は、肩を激しく揺らし、袋の中から足を出した。 酷く汚れたズボンと靴を、緩慢な動きで脱ぎ捨て、支えを失い床に横たわるビニール袋に目を向けた。 『母』と呼んでいた女が持つ、黒猫のぬいぐるみが、瞼に残る。 大事そうにぬいぐるみを撫で、愛でる母の姿を、男はぼんやりと思い出していた。 そのビジョンが、仔猫を愛しんでいた黒猫の姿と、重なっていた。

男は、駅近くの繁華街をうろついていた。 酔っているのか、足元が少し覚束無い。 人気の無い、殺風景な部屋に居た溜まれず、男はここに来ていた。 一緒に飲もうと思える人間などいない。 男にとって自分以外の人間は、全て無能で、イラ付かせる存在に過ぎない。 それでも、湧き上がる人恋しさは、どうしようもなかった。 時間が経てば、ここにも人気は無くなる。 男はそうなる前に、家路に着こうとした。

「――っ!!」 不意に、物陰から飛び出した影に、男は驚き飛び退いた。 目の前で動きを止めた影は、猫だった。 瞬間、男は殺意を覚えた。 驚かされた事もそうだが、あの、威嚇するような瞳に、胸糞が悪くなってくる。

そう思い睨み返した時、猫は身の危険を察知したかのように路地裏へと走り込み、すぐに見えなくなった。 「チッ……」 忌々しげに舌打ちをし、男は猫が逃げ去った方を睨みながら、歩き出す。

男は心の底からそう思っていた。 誰から憎まれようと咎められようと、自身の手でそれを行う事に、何の躊躇いも感じなかった。 男にとって猫は、憎悪の対象でしか、あり得なかった。

 
 
 

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