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大正 時代 帽子

  • Writer: Rolf Reeves
    Rolf Reeves
  • Sep 22, 2023
  • 11 min read

第75回 男性が帽子なしで外を歩けなかったころ~明治日本のパナマ帽子の話

一人前の大人の男性が帽子をかぶらずに外を歩くことがとても恥ずかしいことだった、そういう時代があった。 そう言われても、実感がないのだが、実際、明治・大正から昭和にかけて、およそ戦前までは成人男子の軍人や学生の制服・制帽を含めて、「冠帽率」は9割を超えていたといわれる。洋服に帽子、以外にも和服に帽子姿の人も普通にそのへんを歩いていた。当時の写真や新聞・書籍の挿絵を見ても様子がわかるだろう(図1)。 江戸時代の男性の頭髪が身分や職業を表していたように、明治以降の帽子もまたファッションでありながら同時に、その人の身分や職業を表す印でもあった。

断髪令と帽子

明治初期の日本で帽子が必需品となるキッカケは明治4年(1871)に出された「断髪令」だった。

散髪、洋装化もそのひとつだ。まず、官庁の公務員や軍隊から一般へと広げる。いわゆる「ちょんまげ」、「ふんどし」に「わらじ履き」で半ば裸、はだしの格好から洋服に靴、頭は散髪し帽子をかぶることが新しい時代の身だしなみに変わっていった。 いわゆる明治4年の「断髪令」は、「散髪脱刀勝手たるべし(散髪し帯刀しなくてもよい」というもので、華族・旧士族階級に対して発せられたように受け取られるが、真意はすべての国民への通達である。 その後の徴兵(国民皆兵制)、「強兵化」にとって必要な施策だった。

当時、都市はともかく、地方に行くほど通達が行き届かないため、いろいろな旧習を禁止する「布達(御触書)」が数多く出されたが、断髪の「道理」は、旧来の頭を剃り髪を結うことは身体の害になるとまでつけ加えられた。 それでも散髪が進まないため明治6年には厳しく取り締まる。 このころは、地方によっては反乱が起きるほどの混乱もみられたが、同年3月に明治天皇が自ら髪を切り洋服を着るようになったことから散髪、洋装化は大きく進展した。

こうして「ジャンギリ頭をたたいてみれば文明開化の音がする」という歌が流行するようになった。散髪が一般に普及するようになったのは明治20年頃だったという。 女性の髪型は「断髪してはいけない」とされ、明治14年の断髪解禁を経て、西洋風の「束髪」へと次第に変化した。女性の結髪は美しいが、洗うのがとてもたいへんだったので、断髪令が出た時にまっさきに髪を切った女性が少なからずいたという。 ところが、女性は女性らしくしておけというのが当時の社会で、すぐに「女性の断髪禁止」となった。

松本重太郎の帽子買い占めの話

松本重太郎は明治大正期の大阪で名を響かせた大実業家で、鉄道王と呼ばれた人。世間では「東の渋沢、西の松本」とまで称えられ、松本がつくった私鉄沿線には「阪神間モダニズム」と呼ばれる文化が花開いた。よほどビジネス感覚にするどい人だったようだ。

『園藝探偵』第2号で、小原流(関連:本連載第17回)の「盛花」スタイル誕生の陰に松本重太郎が関係しているという説を紹介した。この説はかなり否定されているが、小原流初代家元、小原雲心が松本家の奥様方に花を教えていたのは間違いないようだ。

・明治45年頃、ちょうど京都府知事槙村正直が断髪令を出すというときのことだ。 私(松本)はそのとき神戸にいたが、今度京都で散髪の布告を出すようじゃと聞き込んだから、直ぐにその足で家へも帰らず夜の12時頃そっと宿を抜け出して長崎行きの船に乗り込んだ。船の名はオルゴニヤという外国船だった。 ・ところが、朝になってみると驚くことに、私と同じ連中が13人も乗り込んでいることがわかった。連中はみな長崎で帽子首巻きを仕入れて一儲けしようと抜け目なく乗り込んだものたちだった。 これではなんとか工夫をつけなければうまくない、というわけで13人協議の結果、13人を2組に分け、各組一日交代に市中を始め大浦出島まで、残る隈なく品物を買おうじゃないかということになった。 ・こうして長崎に到着した翌朝と翌々朝の2日間、同地にある帽子首巻は残らずすっかり買い占めてしまったのである。 さあこれでよしと、荷造りをしているところへ後からの船で京阪から商人が何十人とやってきたが、買い占めの後でどうすることもできず悄然引き返すという有りさまだった。 ・さあ、こちらはしめたものだと勇み込んで、自分たち7人の組で買い込んだ品物は私の商標( 「丹重」山に十のマーク)で大阪へと出帆し、夜が明けるころ泥池の浜に着いた。十数人の仲仕をたのみ、まだ家人が寝ている店を叩き起こして荷を運び入れようとした。 と、そのとき、前日から待ち構えていたという京都の商人が、もう何十人と一度に押し寄せた。松本重太郎が長崎に帽子の買い占めにいったという情報があっという間に広まっていたのだ。店はもう人の黒山となっている。 ・まだ荷を店に並べる前にこの有さまで、さあ、荷を解きにかかるやいなや、その帽子はこっちによこせ、いや襟巻きは私が引き受けるとばかり、値段などは頭から聞かずに品物の奪い合いで喧嘩が始まった。 このときはもう、金儲けよりもむしろその売れ方が愉快で、いかにも面白く感じました。

松本重太郎は丹後(京都)の豪農の次男に生まれ、若い時に大阪へ出る。明治初めの世の中の転換期だった。 ここで洋反物の行商から始めた商売は成功し、「丹重」の屋号で店を構えると急速にのしあがった。西南戦争のときには、軍用の羅紗を買占め、巨利を得たという。

参考 東京大学附属図書館のサイト 文久3年の第2回遣欧使節団のメンバー、乙骨亘(上田敏の父だという)や矢野次郎兵衛(一橋大学の前身である商法講習所・東京商業学校等の校長を務めた)の髪型に注目。月代を伸ばしている途中のすこし恥ずかしい感じのヘアスタイルになっている。

政府による断髪令がどの程度の規模と厳しさで実施され、どのようになるか分からないときに、多くの人々は帽子が必要だと考えたわけだが、たしかに、頭の半分を剃った状態で残りの髪を切るとすると、髪が生えてくるまでは、時代劇で見るような「落ち武者」のような姿になってしまう。あるいは、高校野球部に入って初めて坊主頭になった少年のように「恥ずかしい」ことだったのではないだろうか。 髪が生えるまで手ぬぐいで頬かむりするのか。そうもいかないだろう。まずもって帽子は非常に緊急かつ重要なものだったのではないだろうか。 お相撲さんは髷のままでよかった。また徴兵が始まった明治初期から入営した新兵はみな丸坊主にされた。「バリカン」は明治16年頃から普及したといわれる。明治27年の日清戦争で定着。)

横浜植木によるパナマ帽の国産化

松本重太郎が機を見るのに鋭かったという話は、帽子のことひとつとってもよく分かる。 男性のほとんどが帽子をかぶっていた時代、夏用の帽子(正装用としても)は、麦わらでできたカンカン帽とそれより遥かにしなやかな植物繊維でつくられたパナマ帽子があった。 現在でもそうだが、本物のパナマ帽子はたいへんに高価なもので、かぶる人の「人となり」を表すアイテムだといえる。

参考 小学館『サライ』のサイトから 夏目漱石とパナマ帽

本連載の第45回でも触れたが、パナマ帽は、南米エクアドル産のパナマソウ(Carludovica palamata パハ・トキーリャ)の葉を原料とする。これを裂いたキメの細かい紐を編んでつくっているため織り方によるが、柔らかいものは簡単に折り畳める。先住民の古い文化を継承した織物が元になっているそうだ。 形状も優美で被り心地もよいため、たいへんな人気商品だった。

明治時代にこのパナマ帽を国産化した園芸会社が横浜にある。横浜植木株式会社だ。今日は、この話をしようと思ったのだが、ずいぶんかかってしまった。(気を取り直して続けます!)

百合根の輸出や西洋草花の輸入を中心に植物を扱う専門商社だった横浜植木では、明治の後半から大正時代にかけてに、「パナマ帽子」の製造・卸・販売を行っている(図2)。

  1. 論文「文明開化の散髪と断髪」 森杉夫 大阪府立大学 社会科学論集1979

  2. 論文「散髪令考」 三澤純 熊本大学 文学部論叢74 2002

  3. 『明治事物起源』7 石井研堂 筑摩書房 1997

  4. 『気張る男』 城山三郎 文藝春秋 2003

  5. 『エクアドル―ガラパゴス・ノグチ・パナマ帽の国―』 寿里順平 東洋書店 2005

  6. 『値段史年表 明治・大正・昭和』 朝日新聞社 1988

  7. 『明治・大正・昭和・平成 物価の文化史事典』 森永卓郎・監修 展望社 2008

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著者プロフィール

松山誠(まつやま・まこと) 1962 年鹿児島県出身。国立科学博物館で勤務後、花の世界へ。生産者、仲卸、花店などで勤務。後に輸入会社にてニュースレターなどを配信した。現在、花業界の生きた歴史を調査する「花のクロノジスト」として活動中。

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極東のトルコ帽始末(3)極東のあかい帽子

トルコ帽はトルコ語ではフェスという。着用が広がったのはオスマン帝国時代、それも近代以降である。19世紀前半からのオスマン帝国の政治経済・行政・軍事の近代化に伴って、導入・着用が進んだとも言われている。中東のみならず、バルカン半島や、南アジア・東南アジアでも、色や形が少し違うものの、似たような帽子が流行し、やがてヨーロッパ世界ではオリエンタルなもの、エキゾチックなものの象徴と見なされるようになった。ヨーロッパ人のファッションとして取り入れられることもあり、例えばイギリスでは、男性たちが喫煙時にかぶる「スモーキング・キャップ」として、トルコ帽型の帽子が使われたりした。

日本人とトルコ帽の出会いには、いくつかの場面が考えられる。 第一に、外国でトルコ帽を見たというケースだ。明治時代以降、オスマン帝国やイランなど、中東地域を訪問する日本人がいたし、洋行、すなわち日本からヨーロッパをめざす場合は、船で東南アジア、南アジア、中東を通るのが主要なルートだった。その途中でトルコ帽をかぶった人に出会うことがあったろう。

では、その「変わり者」たちの心情はどうだったのだろうか。もう少し考えてみたい。 まず考えられるのは、アジア・アフリカ世界、あるいは中東・イスラーム世界にコミットして、その気持ちの発露としてトルコ帽をかぶったという文脈である。1886(明治19)年にオスマン帝国の首都イスタンブルでトルコ帽姿の写真を撮った小説家の柴四朗(1853~1922)、1892(明治25)年にエルトゥールル号の義援金をもってイスタンブルを訪れ、日本・トルコ交流の中心的人物となった山田寅次郎(1866~1957、オスマン帝国で撮影したと思われるトルコ帽姿の写真が多数ある)、1909(明治42)年にマッカで、「紋付羽織袴+トルコ帽」姿でフサイン・イブン・アリーに会見した山岡光太郎(1880~1959)がこれにあたるだろう。

しかし、文明開化、脱亜入欧、帝国主義の道を進んでいた当時の日本の「洋行」者、すなわちヨーロッパ留学者の場合、アジア・アフリカの人々にシンパシーを抱いて、自らもトルコ帽をかぶったとは考えにくい。多くはやはり、ヨーロッパ人のエキゾチズムを模倣したということなのではないだろうか。(1)の記事で見たヨーロッパ留学経験のある洋画家などはこのタイプ、すなわち、自分たちを無意識にヨーロッパ人になぞらえて、彼らのオリエンタリズムを追体験したのだとも考えられる。 やがてそうした人々が日本に持ち帰ったトルコ帽が、最先端のファッションと見なされて、文士など、「ちょっととんがった感性」の人々に受け入れられていったのだろう。

そしてもう一つ重要なのが、(2)の記事の最後に少しだけ言及したアナーキストたちの流れである。当時のアナーキストたちの間では、「赤いトルコ帽+筒袖の和服」スタイルがはやっていたという (秋山清「やさしきテロリスト・村木源次郎」(『歴史と人物』2-12(1972))。堺利彦の回想録によれば、その元となったのは、大杉栄がバクーニン(1814~1876)の真似をしていたことだったらしい。(『中央公論』46(6)(1931)。そもそもバクーニンがなぜトルコ帽をかぶっていたのかはわからなかったが、1868年に撮影されたバクーニンの写真で、トルコ帽姿のものがある) 後年、アナーキストの河本乾次(1898~1982)は当時の大杉のことをこんな風に回想している。

大杉は、当時においてたしかに形破りの男であった。演説会に、 トルコ帽子 を被ったまま演壇に登り、愛用のマドロスパイプでタバコをぷかぷか吹かしながら聴衆に喋り出すふるまいは、彼でなければやれない演技であった。(『イオム』(3)、1973)

以上、「アジア・アフリカ世界へのコミット」「洋行とエキゾチズム」「アナーキズム」といった文脈が考えられるが、それらが一人の人間の中で複雑に組み合わさっていた可能性もある。例えば、1913年(大正2年)に京都でパンの店「進々堂」を開いた続木斉(1881~1934)は、新宿中村屋でバイトをし、大杉栄との交流をもち、店を開いた後にフランス留学を果たし、帰国後はエジプトから持ち帰ったトルコ帽をかぶっていたという。若い頃は詩作に励み、また研究熱心で学者肌のところもあり、周囲からは「変人」と呼ばれていたらしい(進々堂HP)。

1925(大正14)年には治安維持法も成立していたから、目立つ帽子をかぶって外を歩いていれば警察に目をつけられた可能性がある。芹沢光治良の『人間の運命』でも、昭和の初め、名古屋で主人公がベレー帽をかぶっていただけで警察に連れ込まれるシーンがある。だんだんに外ではトルコ帽をかぶりにくい状況になっていっただろう。トルコ帽は次第にサーカスとか、カフェの店内での道化の衣装と化していった。例えば、昭和7年6月5日付『大阪朝日新聞』は、大阪のカフェー・ユニオンの経営者小堀勝蔵に裁判トラブルがあり、

それにしても、明治・大正を舞台にした小説、芝居、映画などを作るのであれば、外を歩く男性には帽子をかぶらせなければいけないし、ちょっとキザ、あるいは変わり者のキャラクターにはぜひトルコ帽をかぶらせてあげてほしい。今回はざっくりと調べただけだったが、それでも「時代考証の難しさ」みたいなものを感じる体験となって、とても面白かった。

 
 
 

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