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君 の 名 は 糸 守 町 その後

  • Writer: Rolf Reeves
    Rolf Reeves
  • Oct 30, 2023
  • 14 min read

『君の名は。』における糸とは何か?

『君の名は。』では、糸を編むことで形作られる組紐や尾を長く引く彗星など、糸をモチーフとした道具が出てきます。 飛騨山中の隕石湖を中心とした糸守町在住の神主の家系の少女・宮水三葉と、東京在住で放課後はカフェ巡りやイタリアンレストランでのバイトに勤しむ少年・立花瀧。一見すると縁遠い二人を繋げているのは、文字通り運命の赤い糸です。本作における糸には、距離の離れた少年少女を繋げる組紐や、片割れた核が落下して糸守町を壊滅させてしまう彗星など、多様な意味が籠められています。 少年少女の出会いと、町の壊滅という異なる二つの効果をもたらす糸は、『君の名は。』ではどのような道具なのでしょうか? この原稿では、『君の名は。』における糸の解釈や、それによって新海誠が何を描けるようになったのかについて考えたいと思います。

【2】宮水神社の秋の神事について

(1)ムスビ

この一連の台詞の中で、糸を繋げることがムスビと呼ばれ、組紐を作ることそのものが氏神の技を顕していることが端的に説明されます。また、何かを飲み食いし、体に入ったものを魂と結びつけることもムスビであり、口噛み酒をご神体へ奉納することは、神と人間を繋げるためのしきたりとも説明されています。 しかし、宮水神社の組紐の文様や神楽舞の意味については、劇中で説明されていません。組紐を作る最中の一葉の台詞によると、今(2013年)から200年前に、糸守町の草履屋の山崎繭五郎の風呂場から火が出て、神社も古文書も焼けてしまい、組紐の意味することが正確には分からなくなっているのです。 ただし、これは、ムスビが動的で、「時には戻って、途切れ、またつながり」を繰り返すことに由来する帰結であると考えられます。「(組紐や神楽舞の)意味は消えても、(組紐を作ることや神楽舞を舞うことの)形は決して消しちゃあいかん。形に刻まれた意味は、いつか必ずまたよみがえる」…このように、寄り集まって形をなすことと、途切れて分かたれることは、ムスビの運動の二通りの表れ方の違いでしかありません。

(2)片割れ

1.黄昏時の古い言葉 糸守高校の古典教師(ユキちゃん先生)の解説によると、黄昏時の古い呼び名は「彼は誰時」であり、黄昏時の糸守町独自の呼び方が「カタワレ時」です。糸守町は少なくとも前回の彗星落下の1200年より古い歴史を持つ町であり、一般的な「黄昏時」という表現ではなく、万葉言葉の「彼は誰時」が残り続けていました。 また、宮水神社の御神体内部で口噛み酒を飲み、彗星衝突当日にタイムスリップした瀧は、カタワレ時の御神体に向かうことで三葉との再会を果たします。この再会によって、三葉の身体に最後の入れ替わりが発生し、糸守町の住民を高校へ避難させる道筋が見えたように、カタワレ時は本作において重要な役割を果たしています。

3.二人の男女が距離を隔てて離れている状態 彗星核が二つに分かれるように、『君の名は。』では、三葉と瀧の間にある距離が、重要な要素として描かれています。三葉が住む2013年の糸守町と、瀧が住む2016年の東京は、時間的にも空間的にも距離があり、この状態も引き裂かれた者同士の「片割れ」なのです。第一幕でコメディタッチで描かれる入れ替わり現象は、実際に会ったことのない二人が距離を飛び越えて出会うための手段です。 「知り合う前に会いに来るなよ。分かるわけないだろ」というカタワレ時の瀧の台詞は、たとえ三葉と瀧が、時間と空間に引き裂かれていたとしても、それでも距離を飛び越えて二人が出会ったことを表す、良い台詞だと思います。 そして、本作の二人の間の距離の描かれた方に、過去の新海作品との連続性を見ることもできるでしょう。『ほしのこえ』のキャッチコピー「私たちは、たぶん、宇宙と地上にひきさかれる恋人の、最初の世代だ。」は象徴的です。また、『秒速5センチメートル』でも、小学校卒業と同時にヒロインの明里が東京から栃木へと引っ越してしまい、主人公の貴樹との間に距離ができるように、新海作品では二人の男女が距離を隔てて離れているシチュエーションが多く描かれます。

(3)「片割れ」同士を結びつける神事

3.宮水神社の秋祭り(2013年10月4日) 宮水神社の境内に屋台が並び、糸守町の住人達が集まる。 糸守町には、2013年までにおそらく3回は彗星核が衝突しています。1度目は糸守町から離れた場所にカルデラを作り、宮水神社の御神体が置かれました。2度目は1200年前の糸守町の中心地に落下して、糸守湖を作り上げました。そして、3度目は2013年10月4日の宮水神社の秋祭りの日に彗星核が衝突し、三葉を含む町の住人の命を奪い、新糸守湖を作り上げます。

しかし、宮水神社の秋の神事の流れを見ていると、奇妙なことに気がつきます。それは、最も大切な秋祭りの日に、宮水神社の巫女である三葉が、友人のテッシーやさやかと一緒に浴衣を着て自由行動ができることです。三葉が秋祭りの神事を行わず、テッシー達もそれを当然のこととして受け止めているのですから、秋祭りの日に巫女が行う神事はほぼないのでしょう。そのように考えると、巫女が口噛み酒を作り(1.)、御神体へ奉納する(2.)という一連の流れこそ、宮水神社の神事の中で最も重要であると思われます。 巫女が米を口に含むことでムスビとなり、そのようにして作られた口噛み酒を神に奉納する…この一連の神事の中で、口噛み酒は巫女の半身として扱われます。 御神体内部の天井に1200年前に片割れて糸守町へ衝突した彗星が描かれていたことと、御神体へ巫女の半身である口噛み酒を奉納することを考えると、片割れてしまった彗星へ半身である口噛み酒を奉納し、彗星核を片割れる前の完全な状態に戻す象徴的行為が宮水神社の神事と言えます。

(4)境界線上の宮水神社

御神体に口噛み酒を奉納する神事(片割れた彗星を完全なものに戻す儀式)は、彗星に象徴される神が対象ではあるものの、三葉と瀧の再会というストーリー上の大枠に沿っています。 しかし、『君の名は。』のストーリー上では、「元々は地方の糸守町と都会の東京で別々に暮らしていた三葉と瀧が、終盤、東京で再会する」という流れとともに、「元々は一つだったティアマト彗星の核が、二つに片割れて糸守町に衝突する」という逆の流れがあります。この二つの流れは、「一つのものが二つに分かれること」と、「二つに分かれていたものが一つになること」という意味で一見すると相反しているように思えます。 もしも、糸守町に衝突して大惨事を引き起こすためだけに、ティアマト彗星という道具が設定されたとしたら、彗星核が二つに分かれる設定は必要ありません。別に彗星核が二つに片割れなくても、糸守町に衝突して大災害を引き起こすことは可能だからです。

一つは、黄昏時です。黄昏時の語源である彼は誰時は、夕焼けの名残が残る日没直後の時間帯を指します。 この時間帯は、道中で出会った相手に対して「あなたは誰ですか?」と尋ねなければ、相手が誰なのか分からないくらい薄暗いです。黄昏時は別名、逢魔時とも言われるように、昼と夜の境界であり、二つの異なるものが入り混じり、明確な境界線を引くことが困難な時間です。 過去の三葉と現在の瀧が、カタワレ時に宮水神社の御神体周辺の山頂で再会したのも、昼と夜が曖昧な黄昏時の特徴を受け継いで、過去と現在の境界線が曖昧な時間帯だと、劇中で設定されているからなのでしょう。

【3】組紐について

(1)時間を組み替える技

宮水一葉によると、組紐は宮水神社で祀られている神の技を顕したものです。複数の紐をより集めて形を作り、捻れて絡まって時には途切れ、また繋がる。そのような組紐の作られ方が、神の技を顕した人間の技だとしたら、そもそも、神はどのような組紐を作り上げるのでしょうか? 『君の名は。』では、複数の時間軸の話が、交互に展開します。 過去(2013年)の高校生・三葉と、現在(2016年)の高校生・瀧は、夢を通じて互いの身体に入れ替わり、お互いの生活を追体験します。 「ワシらの作る組紐も、神さまの技、時間の流れそのものを顕しとる」という台詞にあるように、宮水神社で祀られている神にとっての紐は、時間軸です。神が複数の紐(時間軸)を入れ替えて組紐を作り上げる過程で、瀧と三葉は夢を通じて入れ替わるのでしょう。 複数の時間軸を入れ替えることは、映画における編集に似ています。映像編集の技法の一つに、クロスカッティングというものがあります。これは異なる場面を交互に撮影することで、臨場感をもたらす映像編集の技法です。通常は、複数の場所で同時進行している出来事を交互に見せる事が多く、『君の名は。』第一幕でも瀧と三葉が別の時間軸に生きていることが伏せられていたため、観客は同じ時間軸で入れ替わりが起きていると勘違いしてしまいました。

(2)感傷の暴力から遠く離れて

さてこの複数の糸(時間軸)の入れ替わりは、『君の名は。』という作品に対して、どのような作用をもたらしているのでしょうか?それはおそらく、過去形のモノローグで語ることへと抗うキャラクターを立ち上げる作用です。 例えば、新海誠の過去作の『秒速5センチメートル』第一話『桜花抄』は、初恋の少女・明里が住む栃木県へ、降雪の影響で遅延する電車に乗って会いに行く少年・貴樹のモノローグで話が展開します。モノローグの時制は過去形であり、貴樹によって語られる明里は、まるで過去の世界に住む少女のようです。この話の中では、貴樹の視点から見た明里は語られていても、明里の視点から見た貴樹はほとんど語られません。 感傷とは、現在から過去を回想する…言うなれば、少女を自らの脳内に仕舞い込んだ過去に縫い付けて、現在と過去が交わらないようにすることだと思います。

「彼女は、本が好きなショートカットの少女だった」という過去形の文章は感傷になりえても、「彼女は、本が好きなショートカットの少女です」という現在系の文章は少女の紹介でしかなく、「彼女は、本が好きなショートカットの少女になります」という未来系の文章は作者のフェティシズムによる単なる願望でしかありません。 現在や未来とは異なり、タイムスリップでもしない限り、過去を変えることはできません。現在と過去の間には隔たれた距離があり、過去に何があったとしてもそれを変えることはできず、感傷に浸ることしかで きません。 また、現在から過去を回想することはできても、逆に過去から現在を回想することはできず、少女を語る行為は一方通行です。感傷を消費の対象として、過去の世界に生きた少女を描き続ける場合、現在に生きる青年の視点から少女を語ることはできても、少女の視点から青年を語らせることはできません。既に、彼女の主観は喪失しているからです。 私は、現在の視点から過去の少女を感傷的に語る際、逆に過去の少女の主観から現在の青年を語ることはできない点に、まるで少女を過去の世界に閉じ込めておこうという後ろめたい暴力性を感じてしまい、同時にそれに対して青年を罰する展開が必要と考えてしまいます。

(3)主観を与える技

『君の名は。』で描かれる時間軸は、過去(2013年の三葉(高校生))、現在(2016年の瀧(高校生))、未来(2021年の三葉と瀧)の3種類です。 『秒速5センチメートル』とは異なり、過去の三葉と現在の瀧は、時間と距離を跨いで入れ替わってしまう存在です。 そのため、「少女を自らの脳内に仕舞い込んだ過去に縫い付ける」ことはなく、三葉も瀧も双方が主観を持った人間として描かれています。入れ替わりは、過去と現在という時間の距離を隔てた少年と少女を出会わせる道具です。過去に生きる三葉と現在に生きる瀧はお互いに協力し、彗星が片割れて糸守町に墜落し、三葉が死ぬ世界線を変えようともがきます。 つまり、過去と現在が「片割れ」るのが『秒速5センチメートル 』だとしたら、過去と現在という二つの糸を「結び」、未来という組紐を作り上げるのが『君の名は。』だと思います。 『ほしのこえ』や『秒速5センチメートル』のように、男女が距離を隔てて離れた状態は「片割れ」であり、その象徴として「片割れ」た彗星核の衝突の歴史をタイムスリップによって書き換える展開は、『君の名は。』という作品が新海誠の過去作の流れを押さえつつ、その流れとは真逆の男女が再会する終盤を作り上げるためのものなのでしょう。

もちろん、現在から過去へと感傷する対象は、『君の名は。』にもあります。糸守町という町そのものです。 終盤、瀧は図書館で『消えた糸守町・全記録』と題された写真集を読みながら、何故、今はもう存在しない町の風景に、こんなにも心を締め付けられるのかと自問します。瀧と三葉が協力し、糸守町に住む住人達を救うことはできても、彗星核が糸守町に衝突することそのものは防ぐことができません。そのため、糸守町は過去に縫い付けられ、瀧は感傷的に心を痛めることしかできません。 しかし、『君の名は。』では、その感傷は彼を苛みつつも、感傷を打ち破る契機をも与えてくれます。それが、過去と背景に退いた糸守町を離れ、上京してきた少女という半身です。

感傷の対象を、ヒロインの少女から糸守町という町の風景に移し、少女に主観を持たせること。 少女を、青年の過去への感傷の中でのみ存在するキャラクターではなく、青年とも双方向にコミュニケーションできる主観のあるキャラクターとして描くこと。 そのことによって、新海誠の表現の幅は、王道の娯楽作品も描けるほどに広がったと思います。

『君の名は。』は震災以降に「会うこと」とは何かを巡る物語

2016年に劇場公開された新海誠監督作品『君の名は。』は震災以降に「会うこと」とは何かを巡る物語だ。 物語の主人公は2人の少年と少女である。東京に暮らす少年、瀧と田舎の糸守町で暮らす少女、三葉だ。ある朝、二人の精神(あるいは魂)の入れ替わりが起こるところから物語は始まる。二人は戸惑いながらも入れ替わった中で日々を過ごしていく中で惹かれていく。しかし、ある日を境に入れ替わりは止まり、瀧は三葉を探して飛騨の山奥の糸守町にたどり着くが、糸守町は3年前に数千年に一度の彗星が落ちた日に失われた町だった。そこで瀧は三葉と3年ずれて入れ替わっていたことを知り、三葉は彗星が落ちたことによって亡くなった町民500人以上の中の1人だったという現実を突きつけられる。そこで瀧はもう一度、三葉と入れ替わり彗星の墜落の被害から人々を救おうと奮闘し、入れ替わりの果に三葉と出合いお互いにの協力により彗星の墜落の被害から糸守町の人々を守ることに成功する。そして、瀧の時間軸から5年後、瀧と三葉は東京で再開し、お互いを見つけ合う。 ストーリーの流れは以上だ。映画で描かれる彗星の被害にあった糸守町の風景は東日本大震災の被災地を思わせ、彗星の落ちたあとの町が破壊される様子も地震や津波で破壊された被災地を想起させる。 なぜ、新海誠は震災の風景を描いたのか。それは『君の名は。』震災以降の2014年から構想が始まっていると、『君の名は。』Blu-rayスペシャル・エディションの特典映像のメイキングインタビューの中で新海誠は答えている。それは3年前に発生した2011年3月11日の東日本大震災後の影響を受けていると考える。先程も述べたが、自然の驚異である彗星が落ちることは地震や津波の比喩であると考える。そして糸守町で亡くなった人々は被災されて亡くなった人々だ。 ここで安易に尊い人間の死(数ではない)や今をなお被災されて苦しんでいる方々がいらっしゃる中で作品と結びつけて批評していいか悩んだが、『君の名は。』を語る上で必要なのでどうか許して欲しい。 ここで「会うこと」について考えてみよう。新海誠は劇場デビュー作『ほしのこえ』、第2作品となる『雲のむこう、約束の場所』、第3作品『秒速5センチメートル』、第4作品『星を追う子ども』と、全ての作品を通して男女のすれ違いを描いている。 それは場所であったり、距離であったり、時間であったりと様々だが自分から会いに行かない、あるいは会えないというループを繰り返し描いてきた。 そう新海誠は「会えない」という作品を作ってきたアニメ作家である。 しかし第5作品『言の葉の庭』では最後の主人公のモノローグで「会いに行こう」という。ここで自分から会いに行こうとしている。新海誠にどのような心境の変化があったかは分からないが、登場人物が本当は、自分は何をしたいのかという主体性を持たせようとしている印象がある。 そして2016年公開の『君の名は。』では主人公の瀧と三葉がお互いに会おうとしている。 これは東日本大震災以降を生きる私たちに響くのは何故だろう。 東日本大震災では尊い2万人もの死者、行方不明者の方々がいる。もうその人達には会えない。だからこそ新海誠はフィクションである物語だからこそ、「会いたい人に会わせた」のだ。現実では叶わない願いをフィクションである物語で実現させたのだ。それは作品を作る作家の公共性であると私は考える。 そして、彗星が落ちることが分かっていれば助けられた命も東日本大震災で「あの日、地震が来るのが分かっていれば」、「あの日、津波が来ると分かっていれば」、「あの日、原発を止めていれば」という儚いながらも多くの人が思った願いだ。それをフィクションとしての物語として描いたのだ。 そして新海誠が過去の作品で「会えない」という登場人物たちから、瀧の台詞で「言おうと思ったんだ、お前がどこの世界にいても、俺が必ずもう一度会いに行くって」そう瀧は会いたいのだ三葉に。そして三葉の台詞で「でも、確かなことがある。私たちは絶対、会えばすぐに分かる」 この瀧と三葉の台詞で分かるように強くお互いが会おうとしている。 そして『君の名は。』のラストシーンの階段で大学生になった瀧と大人になった三葉がすれ違い、瀧が「俺、君をどこかで」それに応答する三葉は「私も」と言う。最後にお互いの言葉が重なりあって「君の名前は」で作品は終わる。 そう、新海誠は『君の名は。』でようやく会えたのだ、会いたかった人にそして過去作の「会えない」ループからも脱出したのだ。 それは「会えない」という受動的な思春期から「会いに行く」という能動的な成熟も描いている。 そう、『君の名は。』という作品は東日本大震災後の地震と津波と原発事故という巨大な暴力に立ち向かうのは「自分から会いたい人に会いに行く」という能動的な行動であり、自らが運命を変えていくという力を与えてくれる作品だ。

 
 
 

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